・福島勲『バタイユと文学空間』(水声社、2011)
まるで昨今の日本を評したかのようだが、ジャン・ポーランは、1941年刊行の『タルブの花』のなかで、「わたしは大政治家たちが戦争のことを考えていながら平和を口にしたり、大量虐殺を考えながら秩序について語ったり、何かしら得体のしれぬことを考えながら高貴さとか献身とか騎士道精神などについて語るようなある世界のことは何もいうまい」と記している(野村英夫訳、書肆心水、2004、p.122)。ここ数年、政治家たちが、選挙などで敗北した際に、「我々の真意が理解されなかった」などと述べるときがある。以前からこのような言葉を口にする人はいたかもしれないが、私はどうも、この表現に違和感を覚えてしまう。というのも、敗北とは、その「真意」とやらが「賛同」されなかった証拠にほかならないのに、この表現には、「真意が理解されさえすれば誰であろうと賛同するに違いない」という無反省な思い込みが見えるからであり、さらに言えば、日頃はいくつもの解釈の余地を残すような言葉遣いに腐心する人々が、釈明のときに限って、「われわれの言葉が理解されさえすれば云々」といって、都合のよい信頼を言葉に寄せてしまうのが透けて見えるからだ。
そのポーランについて、「政治とは、ジャン・ポーランのための場所がない世界だ[…]。いや、ジャン・ポーランのためのというだけでは何も言ったことにならない。つまり、文学のための場所がない世界なのだ」と記したのは、ジョルジュ・バタイユだった。対独協力作家の粛清に反対し、レジスタンス系の作家たちから指弾されていたポーランに対する、見事な弁護である。文学は、政治などというものに対置されるのではない。正しさに根拠を置くのが政治だとすれば、文学は、誰にでも開かれた「公共の大いなる楽しみ」、「誰もが招待されているお祭り」だというのである(Georges Bataille, OC, XI, p.361-362)。
さて、本書は、バタイユにとって、エクリチュール、すなわち「書く」ということにおける「交流(communication)」の意義とその変遷を浮き彫りにしている。「書くことを通して人々に呼びかけること、内的体験という交流の可能性についてエクリチュールを通じて読者たちに語りかけること、そして、誤読と異議提起の可能性とともに読まれることが、バタイユにとっての交流のかたちそのものなのである」(p.135)と記される本書は、手際よく議論が展開されていて、多くのことを教えてくれるし、考えさせてくれる。
交流について語るバタイユにあったのは、おそらく、伝えるべき「メッセージ」というよりはむしろ、やむにやまれぬ「欲望」、本文でも、「バタイユが文学から受け取ろうとしているのはメッセージではなく、むしろその送付の背後にある交流、より正確に言えば、交流への欲望である」と記されるように(p.88)、ただもっぱら「交流への欲望」である。
それはつまり、人間のそもそもの在り方が、どこまでいっても「交流」を渇望するもの、ということではないか。人間はけっして自分一人では自分が人間であることを証明できないということにも似て、人間は、交流を欲することによってのみ人間たりえている、ということではなかろうか。人間は、国籍や職業といった自分の属性を証明することは簡単にできるが、自分が人間であるということだけは、一人きりでは証明できない。自分が人間であるということは、自分が人間と認めた他者から、翻って「お前も人間だ」と認められる瞬間にのみ、確信されるにすぎないからだ。
だが、もちろん、交流の認識は十全な形ではけっして与えられない。というのも、交流とは、完結した主体と、もう一つの完結した主体とのやり取りでもなければ、一体感をもたらすものでもなく、そもそもが未完了な存在者たちの、合一の不可能性という形で生起する現象だからだ。そして、本書によれば、エクリチュールこそが、バタイユにおいてその交流の場を構成しているという。
「<書く>こと、エクリチュールとは、言葉を介して自分に距離を置くこと、また他者たちに対して距離を置くことである。言葉という伝達手段は、<書く>側にも<読む>側にも、言葉と書かれようとしていることのずれをたえず意識させ、合一の共同体という幻想への埋没を許さないからである」(p.112)。
しかし、本書でも指摘されているように、バタイユにはまた、言葉に対する不信感もあった。つまり、言葉を介して距離を置くことになるのは、自分および他者に対してだけではなく、言語そのものに対してでもあるだろう。本書に引用されている箇所で(p.142)、バタイユは、こう記している。
「何を書こうとも、私は失敗する。というのも、可能事の無限の――常軌を逸した――豊かさを意味の正確さに結びつけねばならないのだから」(Georges Bataille, OC, V, p.51)。
ここでは、「合一の不可能性が語られ続けている」こともさることながら(p.142)、エクリチュールに対するバタイユのもどかしさもどかしさもまた、浮かび上がっているように思う。それはつまり、言語それ自体も一つの「他者」になってしまう、という視点である。
何かを語ることができないという事態は、たしかに、その何かが言語を絶している(言葉にならない体験)という事態である。言語という解読格子を通された体験の「現実」は、どうしても言語の網目をすり抜けてしまう。けれども、エクリチュールで表現しえないその現実は、間違いなく存在する。
と同時に、何かを語ることができないという事態は、ほかならぬ理解や伝達の懸け橋たる言語が、その何かの理解や伝達を邪魔してしまう(どう述べてもその言葉が嘘くなくなる)、という事態でもある。そこで、本書では、自己否定的な、「[バタイユの]その口ごもり自体が、複数の話者の登場とディスクールの中断こそが、逆説的ではあるが、読者たちとの交流を導くための雄弁なレトリックを構成するのである」と記されることになる(p.155)。
本書で跡づけられるように、バタイユにおいて、交流という軸は、共同体の模索と挫折から「不一致の一致」へと移行する。だとすれば、言語に対する姿勢は、詩的とも言える『無神学大全』の前後でどのように変化したのか。本書冒頭には、「あたかも右手で書いたことを左手で消していくかのようなこうした[バタイユの]所作の背後にあったのは、単に言語という伝達手段に対する不信だけではない」と述べられているし(p.7)、初期の『眼球譚』という「治療的エクリチュール」から、「運を探すこと」としてのエクリチュールへの移行について触れられているが(p.128-132)、となると、バタイユの言語不信とは、どのような不信だろう。
バタイユの言語は必然的に、その字面のメッセージと同時に、おのれを信じてはならないというメタメッセージの形で記されていることにはならないか。そのエクリチュールは、交流を読者に呼びかけつつも、読者の「誤読と意義提起の可能性」を含むだけではなく、その呼びかけによる交流などありえないのではないかという問いに裏打ちされている――つまり当のエクリチュールを裏切るような形で――とは言えないだろうか。バタイユは詩を書いたけれども、たとえばブランショは詩を書かなかったといったことなども頭に浮かべつつ、本書を読みながら、ふとそんなことを思った。
ところで、このところ、良いモノが売れるとは限らないが売れるモノは良いモノである(だから売れさえすればよい、勝ちさえすればよい云々)、というあまりに薄っぺらい市場論理が幅を利かせてしまい、それに対抗するような形で、贈与ということが脚光を浴びている感がある。そんななか、ナチス・ドイツに対しては、異質な要素を統合する代わりに極度の純粋さを目指してしまうものだと、いち早くその核心を暴いて見せ、ソ連に対しては、生産力を前にして放棄されてしまう至高性という観点から疑義を呈しながら、「有用性」を問い質し続けたバタイユもまた、再び注目されつつある。
それにしても、あらためてバタイユは面白い。先日刊行された『水声通信』34号「”社会批評”のジョルジュ・バタイユ」に参加させていただいたからというわけではなく、文字通り人間の手には負えない事柄が、それこそ日々の営みを囲繞している現在にあって、人間を「可能事の極限」から考えようとし続けたバタイユは、きっと多くを教えてくれるに違いないと思われるからである。
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