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「喪」の喪失

・田中純 『死者たちの都市へ』(青土社、2004年)

ここ数年、「喪」について語られることが多くなってきたような気がする。昨秋に読んだ、内田樹の『他者と死者』(海鳥社、2004年)にしてもそうだが、「生き残った者たちに影響を及ぼす死者の力」に関する考察が流行っているのかもしれない。

でも、なぜ流行るのだろう? 「死者の声」がにわかに喧しくなったということはないだろうし、「生き残った者たちの耳」が俄然鋭くなったということもないだろうに。

映画などで見世物として繰り返されてきて、死に現実感がなくなってしまったように感ぜられる一方で、現代の閉塞感と生活の便利さから、死がますます手軽で身近にも思われるようになってきた、という二重の流れがあるように思われる。でも、二重とは言っても、その流れの帰結は一つ。いずれにしても、死が、たいしたことではなくなって、重みや厳粛さをなくしてしまうということだ。

ところで、本書にも記されているし、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの近著『イマージュ、是が非でも』にも書かれているが、「アウシュヴィッツの表象可能性」については、「ナチスによるユダヤ人大虐殺を理解することは絶対に不可能である」とするクロード・ランズマンたちの立場と、「その大虐殺を思い描くことはできる」とするディディ=ユベルマンたちの考えとの間で、喧々諤々の議論(というか喧嘩?)がなされてきている。私は、ランズマンたちの議論には、「何が語られるか」という点よりも「誰が語るのか」ということを重視する傾向を見て取ってしまい、独善性を感じざるを得ない。

でも、アウシュヴィッツが理解可能だとすることは死のスペクタクル化を助長してしまうのではないか、という危惧も分からないわけではない。「ホロコースト・ビジネス」などという揶揄が生まれるくらい、文学にしても映画にしても、「ユダヤ人大虐殺」をテーマにした作品が陸続と世に出されている。それらは読者や観客によって消費されてしまい、大虐殺とて「日常的な話題の一つ」になってしまいかねない。これはこれで困ったことである。

内田樹は前著で、ジャック・ラカンの文章の難解さが死者たちの要請によるものだ、という考えを示している。これはブランショなどにも言えることではあるまいか。つまり、彼らはそれぞれのやり方で、「死者に向き合う作法」を実践して見せてくれながら、「いかにして死を平板な話題にしてしまわないか」という問いを引き受けてきたのではないだろうか。逆に言えば、「死が平板なものとなった時代にどのように死者に対峙できるのか」という問いを考え続けていたように思われるのである。

街を死者との関係から眺める田中純の記述は刺激的で、とても勉強になった。古代ローマにおける門の役割や、ニュー・ヨークのグラウンド・ゼロの再開発計画、伊勢神宮の建て替えのことなど、知らないことがたくさんあった。死者をきちんと弔うことではじめて街は街として機能するとすれば、街の定礎にあるこのような生と死の「あわい」を、過度に明確にするか過度に曖昧にするかして発展してきた都市は、あらためて死者の影に揺るがされるようになる。

とはいえ、近代以降の状況を、「人間の動物的な生命が権力の対象となっている生政治」として考察するフーコーの視点は、私にはどうもしっくりこない。「収容所という暴力によってあらためて明るみに出された人間のむき出しの生」というジョルジョ・アガンベンの議論もまた、収容所の囚人たちが人間として、さらにいえば「個人として」死んでいったとすれば、スキャンダラスに見える。人間は、「生をコントロールする権力」などには回収され切れず、遥かに強かな気がしてしまうのである。だからこそ一層、人間をモノにしようと試みた大虐殺は恐しいのではないかとも思うのだ。

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