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わけの分らない文章

・Jean-Luc Nancy, "Freud, Heidegger, notre hitroire", Le Monde, 4 novembre 2005
・Pierre Bayard, "Réponse à Jean-Luc Nancy", Le Monde, 9 novembre 2005

フランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーが近々来日するそうだと知人に話したら、「去年の秋の出来事を知ってるかい?」と訊かれ、慌てて読んだのがこの二つの記事。

ナンシーの『無為の共同体』(2001年、以文社)の翻訳に携わったこともあるし、彼の著作には重要で有益な論考も多いと思うので、こんなことを記すのは心苦しいのだが、「フロイト、ハイデガー、私たちの歴史」と題されたナンシーのこの文章は、正直なところ、よく分らなかった。

ナンシーは、フロイトとハイデガーが、無意識の発見と存在の再評価というそれぞれのやり方で、歴史や人間などの「意味」の問いをご破算にし、彼らの登場をもって、「意味や世界の宙吊りが開けたのだが、その宙吊りは、ローマの終わり以来、あるいは最初のギリシア世界の前夜から、西洋の歴史が認識してこなかったことである」という。

きっとそうなのだろう。だが、それにしても、この二人の「限界」や「過誤」を並べるのはやはり難しいのではないか。

「この二人の思索者の限界と過誤――一方にとっては再生への誘惑であり、他方にとっては科学性への誘惑であり、両者共に効率性を求めたという点――は、彼らの生きた時代によって課された条件、もちろん「革命家」も含めて当時のほとんどすべての人が立ち会っていた条件よるものだ。」

つまり、ナンシーは、ハイデガーのナチス賛美と、実証的な科学性に対するフロイトの志向を並べ、それらは共に失敗だったと述べているのである。

どうしてナンシーはこの記事を書いたのだろうか。どんな背景、文脈があるのだろうか。何らかの経緯があるのだろうが、残念ながら、フランスから離れていると、(少なくとも私には)この辺りの事情が分からない。

内容と動機という二つの面で私にはよく分からないナンシーのこの記事に対して、精神分析家であり文学者でもあるピエール・バイヤールが手厳しい反論を向けている。彼は、先般来日し、私の働いているプロジェクトのシンポジウムで発表してくださった。そのときに、この件を知っていれば経緯を訊けたのだが、後の祭りである。

いささか興奮した文体で綴られているバイヤールの反論は、それでもクリアなものだ。

 「そもそも、ジャン=リュック・ナンシーが指摘し忘れているのは、フロイトがナチの被害者であり、ナチは彼の本を燃やし、彼自身は亡命を余儀なくされ、彼の家族の何人もが収容所で命を落とした一方で、ハイデガーは、少なくとも一時期はナチの積極的な共犯者だったということである。[…]
 […]さらに言えば、いったいどうしたら、フロイトの著作に見られる理論的かつ臨床上の欠陥と、ジェノサイドに行き着いた全体主義の企図へのハイデガーの加担とを並べられるのだろう。」

フロイトが精神分析を、当時の人々に(現代においてもなお)科学と認めさせられなかったのは、精神分析という学問にかかわる話だが、ハイデガーのナチス礼賛は個人の政治的な姿勢や道徳にかかわる事柄である。

ナンシーのこの記事は、私にとって、謎である。

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コメント

安原さん、ごぶさたしています。ナンシーの文章の背景には少なくとも、Emmanuel FayeのHeidegger, l'introduction du nazisme dans la philosophieが昨春に出た後、哲学アグレガシオンの題目にハイデガーが選ばれて激しい論争をまねいたことと、この秋にフロイト精神分析を全面的に否定する挑発的な分厚い企画本(Le Livre noir de la psychanalyse)が出てメディアで大々的に話題になったこと、という二点が思い浮かびます。「フロイトもハイデガーも読まなくていい」という論調が同時に再発したから一度に異議をのべたというのが「動機」のようです(バイヤールの文章から推測されていたと思いますが)。「内容」については安原さんと同じく当惑をおぼえるのみで、特につけくわえることはありませんけれど。
別の日付の話題ですが、ウィリアム・マルクスの地震とショアーの並列も異論の余地なしと言えない、という指摘を、クリティックの最新号で読みました(アントワーヌ・コンパニョンによる書評)。全体として本そのものには好意的で、「いろいろ考えさせられる重要な書物」と評しているのですが、著者の立論の盲点を鋭く突いていて(原著は未読ですので留保をつけるべきですが)、この書評だけでもいろいろ考えさせられました。例えばウィリアム・マルクスは文学の権威の失墜をもっぱら文学の内的な変化として記述している(ブルデュー社会学的な見方を否定している)けれども、むしろさまざまなディシプリンやディスクールとの競合関係を考えるべきではないか、という指摘には納得がいきます(現実のさまざまな分野について語る権限を喪失したからこそ純粋化し自己を絶対化したという見方)。書評のタイトルは「さらば文学、それとも、また会えるかな?」……「21世紀のための文学の擁護が待ち望まれている」という結びでした。

投稿: sakamoto | 2006.04.05 20:14

>sakamotoくん
こんにちは。お元気ですか。こんなブログを覗いてくれるばかりか、詳細なコメントまでくれて、どうもありがとう。

なるほど、ハイデガーはアグレガシオンの題目になっていたんですね。知りませんでした。ファイユの本については、キャンゼーヌに載ったカトリーヌ・マラブーの手厳しい批判を読んだだけで、現物はまだ入手していません。読んだ方がいいのか、迷っています。
『精神分析黒書』もまた未購入ですが、実は、3月17日のLACのシンポジウムの際に、「こんな本が出ている」という形で山田広昭先生によって言及されてました。こちらはいずれ取り組んでみたい本です。

ハイデガーを読まなくていいと言う人や、フロイトなんてインチキだと言う人は、つねにそれなりの数いるはずですが、「ハイデガーもフロイトも揃って無用だ」という乱暴なことを口にする人が人文科学の分野でどれだけいるのか、ナンシーの文章を読んだとき、私には疑問だったんです。ちょっとした騒ぎになっていたんですね。教えてくれてどうもありがとう。

ウィリアム・マルクスの本に対するコンパニョンの批評は、今度読んでみます(いつになったら最新号が届くやら……)。察するに、コンパニョンの言っていることは至極真っ当なことで、十分に予想されたものとさえ感じられますよね。

文学史というものに対するマルクスのアプローチは、作品の価値を社会から説明する社会学のように還元主義的でもなく、価値を内在的に論じてしまう美学のように本質主義的でもない位置に立ちながら、作品の「思想」を跡づけようとする、ローラン・ジェニーのスタイルに近いと思っています。ともあれ、「文学の擁護が待ち望まれる」という状況の出来そのものの歴史を、マルクスはダイナミックに描き出していて、興味深いところです。

こんなブログですが、今後ともよろしくお願いいたします。長いお返事でごめんなさい。

投稿: 安原伸一朗 | 2006.04.05 21:54

はじめまして、でもないですが。はじめてお邪魔します。
「ウィリアム・マルクス 本郷」で検索したところ、安原さんのサイトがトップヒットでびっくりしました。ひとりで本郷に行くのは心細いので安原さんにお会いできるのを楽しみにしています。講演題目が「文学よさらば!」でないのがなんとなく残念ですね。
そういえば、A dieu つながりで、日仏学院でナンシーセレクションとして上演される A dieu という映画、ぶっとびですのでぜひご覧ください。去年ぼくが下北の飲み屋さんでトゥーサンにごり押しした映画です。内容の説明もせずにおしつけがましくてすいませんが、後輩のたわ言ということでお許しください。それではまた。

投稿: 谷本道昭 | 2006.04.06 12:56

>谷本道昭くん
こんにちは。こんなブログを覗いてくれてどうもありがとう。

マルクスの講演を聴きたいのは山々なんだけれど、以前の記事にも記したようにどうしても16時には行けないんですよ。17時30分には本郷に行けると思うのだけれど、それまで講演会やってるかな?

ところで、いま調べてみたら『アデュー』は、14・15日に上映されますね。カワイイ後輩の言うことですから、たわ言も何もありませんが(笑)、困ったことにこれも都合がつくかどうか……14日は、マルクスの講演と重なっているしね。また上映されることを願います。

それにしても、昨年のトゥーサンのセミネールの打ち上げは楽しいものでした。彼から聞いたミニュイ社話は思い出すだに笑えます。

こんなブログですが、今後ともよろしくお願いします。

投稿: 安原伸一朗 | 2006.04.06 22:57

全くの素人が失礼します。

フロイトとハイデガーを並べて論ずるナンシーの文章、確かによくわかりません。僕などは、ハイデガーと三島由紀夫を並列したいです、ハイデガーがナチの思想的なリーダーになろうとした、その現実感覚のなさが、三島の自衛隊乱入と似ているように感じるのです。

Fayeの本は(読んだわけではありませんが)、ハイデガーの思想全体が国家社会主義的であることを新旧の文献を使って証明しているようですね。

ハイデガーとナチの関連については、さすがに「ホロコーストはなかった」的な修正論者はもういないようですが、それでも弁護するものからFayeのように全面的に糾弾するものまで幅があるようで、僕のような素人はどの学者の意見に組すればいいのか迷うところです。Tom RockmoreのOn Heidegger's Nazism and Philosophy(1991年)という本の主調が一番ありえそうな話かなと、現在は感じています。Fayeほどの糾弾論ではありませんが、やはり思想的なナチ性というのは否定できないところのようです。

投稿: cozycoach | 2008.08.02 06:48

>cozycoachさま

このようなブログを覗いてくださるばかりか、コメントをくださり、ありがとうございます。

ロックモアの本も教えてくださりありがとうございました。ハイデガーとナチの問題には、自分がどこまで首をつっこんでよいのか、どこまで首をつっこめるのかが分からず、かといって本腰を入れて取り組むなら(ドイツ語の習得も含めて)相当の覚悟が必要ということだけは分かっているので、つまみ食いをしているというような次第です。済みません。

ところで、なるほど、ハイデガーと三島ですか。哲学と文学との関係という点からしても、面白そうですね。ハイデガーに、どれほど自分の振舞に対する現実感が欠けていたのか、三島がどれほど自分の行為の実効性を信じていたのか……今の私にはなかなか見当がつきませんが、気になりますね。

貴重な示唆をどうもありがとうございました。マイペースなブログですが、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 安原伸一朗 | 2008.08.03 00:46

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