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せきたてられる自分の立ち位置

・中野昌宏 『貨幣と精神』(ナカニシヤ出版、2006年)

自分の携わっているプロジェクトが催したシンポジウム発表してくださった方が、どのようなことを考えてらっしゃるのか、さらに知りたくなり、本書を読んでみた。

本書は、自分たちがそのなかで生活している秩序を「生きている構造」として捉え、「<生きている構造>とは何か/どのようなものかを問う」試みである。

「何らかの<構造>の<創発[生起し生成すること]>現象一般の中身とはいったい何なのか、何がどうなることが<創発>なのか、について考察するものである。その際の手がかりとして、<貨幣が生成する場面で何が起こっているのか>ということと、<人間の意識(ないし無意識)が立ち上がる場面で何が起こっているのか>という、より高次の(より具体性の高い)問題から出発する」(5ページ)。

この種の試みの難しさは、分析を施す自分自身が、分析対象である<構造>の一部を成している点にある。それゆえにこそ、中野は、かなりの紙幅を割いて、どの地点からアプローチできるのか、という問いを立てながら、「貨幣」と「精神」とを並べて論じるのである。

「貨幣」だけを問うのであれば、「精神」を問う必要はないし、「貨幣」の機能や、実体性の有無などを論じればよいのだろう。だが、貨幣の「発生メカニズム」を問うとなれば、つねにすでに動き始めている貨幣のシステムにつねにすでに自分も巻き込まれている以上、自分はどのようにしてそのシステムに参与しているのか、つまり、主体の社会化の「プロセス」をも問わざるをえない。だから、本書では、精神分析は、社会分析のための道具として選ばれたというのではなく、むしろ必然的に要請されたのだと思われる。

ところで、貨幣の「存在」について、カール・マルクスの価値形態論を参照しながら、中野は次のように記す。

「[…]われわれが貨幣と呼んでいるものは、一言で言うならばわれわれにとって「商品でありながら商品以上のものを含んだ何か」である」(62ページ)。

言い換えれば、「貨幣は象徴界の内部にあって現実界を指示するシニフィアンである。貨幣はあくまでシステム内の一項であらねばならず、しかし同時にシステム外部を指示しなくてはならない」(145-146ページ)。というのも、貨幣を貨幣たらしめるのは、貨幣そのものしかないからだ。つまり、貨幣とは、「貨幣は貨幣だ」としか定義できないがゆえに、究極的な不動点として機能するのである。このとき、述部の「貨幣」は、貨幣の流通体系を支える点、貨幣そのものがほとんど無価値であるがゆえに空虚でもある点を指している。かくして貨幣は、労働と等価関係におかれた賃金という形では示しえない「剰余価値」(ただし価値というものは、実体ではなく、貨幣が誕生してから事後的に発生する)を担うものとして誰からも「幻想」を抱かれ、欲望される。

そして、貨幣の「創発」は、以下のような精神分析の「去勢のメカニズム」によるものだと、中野は論じる。

「あるものが言葉によって同定されたとき、そのものは言葉のシステムに取り込まれる、言い換えればシステム内部に自分の場所をもつことになる。しかしながらそのものの「物自体」は、あくまでも言語システムの外部に残ることになる。主体が自身をまず想像的に構成し、次にそれを「自己」として象徴的に「名指し」したとき、自己は成立する。それと同時に、主体=「自己自体」は現実的なものとして殺害=抑圧されることになる。これを契機として主体は想像界から象徴界へと進む(社会化する)ことができる。この最初の隠喩、原初的隠喩が「象徴的去勢」「原抑圧」などとも呼ばれることにはそうした理由がある」(73ページ)。

未だ「私」と言えない人間は、周りを通じて自分のことを知るようになり、「私」と同定できるようになる。だが、そのとき、「私だったはずのもの」が事後的に措定され、抑圧される。こうして人間は、「自分だったはずの私」を抑圧することで、「自分の考える私」と「周りの考える私」として生きていくことになる。

このメカニズムの原因を説明するのに、中野は、ラカンを参照しながら、「時間」というファクターを導入する。人間は、他者との関係における非論理的な決断を「性急に」下さないことには、想像界から象徴界へと参入できない。つまり、他者の中に自分の姿を見、また他者も自分の中に彼自身の姿を「同時に」見る必要があるのだ。それは、論理的には真偽を決定できない事態なのだが、それを受け容れない限り、人間は人間にはならない。人間は、「とりあえずの結論」をつねに「本当の結論」として受け容れるしかなく、そのように人間は構造化されている。「創発」は、「せきたて」の動きから始まるのだ。

すでに機能しているシステムの「内側」からシステムの<創発>を論じようとする中野の企図は、たいへんスケールが大きく刺激的である。実際、中野は、さらに歩を進めて、「せきたて」の論理を「現象論的計算」から説明しようとしている(実のところ、ここは私には難しかった。「曖昧さのない計算モデル」だけではなく、「曖昧だけれども効率的な計算モデル」をも人間は不可欠としている、ということらしい)。

ただ、展望を述べた部分で、中野は、芸術や文化は数値化や定量化が難しいと簡単に述べているが、近代以前に詩人が占めていた地位には、今日、スポーツ選手が立っているのではなかろうか。スポンサー(パトロン)を引き連れて、各地で人々を熱狂させるパフォーマンス(朗読)を行なう人々。恐ろしいことに、今や、文化はすでに、とことん数値化され定量化されているのではあるまいか、などとも思うのだった。

(2006.4.3追記 中野昌宏氏のお名前の漢字を間違えていました。謹んでお詫びいたします)

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コメント

この著作は未読ですが、興味があります。 
あるシステムの要となるシニフィアン-システムを成り立たせる扇の要のようなシニフィアンは、その中心に現実界への通路(穴)があいている。欲望はその周囲を終わることなく巡るという構図は、ラカン的欲望の構図にはおなじみのもので、それを貨幣に応用したものでしょう。
そのシステムの創発が「せきたて」として構造化されているということは、個体の精神の発生過程に生物学的基盤という構造があると解釈できると思います。
乱筆失礼

投稿: 烏有亭 | 2006.04.02 23:40

>烏有亭さま
はじめまして。読書日記を書き散らかしたこのブログを覗いてくださるばかりか、コメントまでくださり、どうもありがとうございます。

なるほど、本書の最終部では、「生物学的基盤」からの説明が試みられていると言えるのでしょうね。
ところで、本書については、私などは、つい、ラカンが一つのツールとして貨幣の分析に適用されたというよりは、ラカンが貨幣の分析に必然的に要請されたと読みたくなります。ともあれ、本書は刺激的な本でした。

こんなページですが、またご覧くださると幸いです。

投稿: 安原伸一朗 | 2006.04.03 00:24

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