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折り合いをつけるということ

・ダン・バルオン 『沈黙という名の遺産』(姫岡とし子訳、時事通信社、1993年)

ユダヤ人の心理学者による、ナチス高官やその政策遂行者の子供たちへのインタヴュー集。先に読んだレバートの作品と同趣旨のものだが、本書の方が刊行が早く、インタヴューを受けた人が一人の例外を除いて仮名で記されている点、レバートがジャーナリストだったのに対して、バルオンが心理学者である点、そして、レバートがドイツ人であるのに対して、バルオンがユダヤ人である点が異なっている。

この最後の点は特筆すべきだろう。本書では、いわば、「加害者の子」と「被害者の子」の対話が成立しているのだ。インタヴューを起こした文章の合間に、憤慨するバルオン自身の内面の声が差し挟まれる。たとえば、絶滅収容所での安楽死計画に参加していた父親の息子マンフレートの話を聞きながら、バルオンは、いささかいらだった様子で次のように独白している。

「父親の家の話になると、マンフレートの声の調子は微妙に変化する。平板で、関心のなさを装ったものになる。彼の昔語りを聞いていると、父親はまるで歴史上の人物のようだ」(80ページ)。

こうした率直さを示しながら、インタヴュアーとしての冷静さをも保とうとし、また保っているバルオンの姿勢に、私は「誠実さ」を感じる。復讐心にたぎる感情的な反応だけでは対話になるまいし、冷静なだけでは事態に肉薄することはできないのではないか、とも思われるのである。そして、バルオンは、自分の内的省察に引きつけて、本書執筆の動機を次のように記している。

「邪悪は予想以上に狡猾なものなのだろうか、と私は不安になる。[…]この認識は私の個人的な経験、すなわち自分の心にひそむ邪悪との闘争から生まれたものなのかもしれない。/ある日、私はこのことを友人のナオミに話した。ウッジのゲットーの生還者で35年前にイスラエルにやってきた彼女は、「たしかにヒトラーは死んだ。でも、憎悪や不信、心の傷、そして私たちがあまりにも長いあいださらされてきたあらゆる非人間的なものを私たちが内面化してしまったら、そのとき彼は、私たちを滅亡させるという最終目標を達成したことになるのかもしれない」と答えた」(17ページ)。

「邪悪さを内面化してしまったら」、つまり、邪悪さについて「誰も語らなくなってしまったら」、そのときこそ、「最終的解決」は実現することになる、という友人の話は、バルオンを「捉えて離さなかった」(17ページ)。

実際、本書のインタヴューに読まれる赤裸々な言葉はきわめて興味深い。赤裸々、と記したが、本書に収められたインタヴューは、どれも「成功」したものだからである。インタヴュイーにとってバルオンは見ず知らずの人であるにもかかわらず、その姿勢を前にして、彼らがしっかりと受け答えるようになる様子がよく分かる。

「互いに相手に対する友情を感じながら、われわれの会話は続いていく。マンフレートはほかの遂行者の子供たちのように悪夢を見ないという理由で自分の正常さを疑っているが、これはなんとも皮肉な話である。[…]彼は自分の心の弱さといたみを示してくれた。恐ろしい行為に走った男の生物学上の息子を、私は一人の人間として認められるようになった。同じことを、彼も自分の父親に対してできるようになるだろうか」(112-113ページ)。

こうして、彼らは相互理解に至るのだ。驚くべきことであり、きっと素晴らしいことである。このマンフレートに対する世評は、「まじめくさった、保守的で近づきがたい人物」であり、「ユダヤ人嫌い」だというものだったのである(73,112ページ)。「対象者の一部にとっては、インタヴューの過程そのものが過去の探求と構築に向けての作業となった」とバルオンはまとめている(432ページ)。それは、「歴史」という大きな枠を受け容れつつも、「個」を忘れないバルオンの姿勢によるものではないか。彼は、ほとんどの場合、1対1で話し合っているのである。

そして、インタヴュイーの言葉からは、とても多くの事柄を教えられる。ユダヤ人の虐殺を目の当たりにして以来、日常生活が送れなくなってしまったナチス将校。あるいは、戦後逮捕された自分を被害者として捉えていた親衛隊大尉。そしてそんな彼らが、どのような家庭を築いていたのか。私生児をもうけた人もいれば、敗戦時に一家心中を考えた家庭もある。

そんな家庭の子供たちには、この「負の遺産」を、「折り合いをつけて生きていかなければならない事実」として、受け止める人もいる(86ページ)。あるいは、自分の問題として引き受け、「一人の人間をよい部分と悪い部分に分けて考えず、統合された人格の持ち主として、分裂していない人格の持ち主としてとらえるという態度は、社会や全人類についても、そして僕自身にも適用すべき事柄だ」という結論を出した人(221ページ)。あるいはまた、極限状況を想像しながら、「[…]「自分が巻きこまれるはずがない」と主張するのは僭越と言ってよいでしょう。[…]自分が極限状態に放りこまれたと想像し、何が起こっても抵抗できるように心を鍛えておくのです」という覚悟を表明する人(279ページ)。あるいは、「でも自分から行動を起こすこと、問題に再び向き合うことにはためらいがあります。罪悪感がありますから」と過去への不安を口にする人もいる(173ページ)。

ところで、これはあくまでも偏見なのだが、私はどうも、学問としての心理学にはあまり関心がもてない。浩瀚な本書を読んでも、末尾に置かれたバルオンによる結論に、「できるだけ多くの側面からデータを分析しようと試みる」などという文章を読んでしまうと(421ページ)、これらの貴重なインタヴューが「データ」として扱われてしまう点に、「浅薄さ」を感じてしまうのだ。終戦当時本人が何歳だったかなどという外的な条件でインタヴューが分類されてしまうのだ(429ページ)。「現実」と「記憶」との関係はそんなに単純なのだろうか、という疑問も湧く。(心理学とはまったく無関係ながら、彼はさらっと、祖父母が住む「ハイファ」に住んでいると記しているが(74ページ)、そこが経ている歴史にも思いがめぐる。)

こうした点から、私は、「世が世であればナチに深入りしたかもしれない父の遺産」として、ナチス高官の子供たちにインタヴューを行なったレバートの書物や、「後から自分の知った歴史」を背負って「記憶」と「現実」がない交ぜになって回帰してくる「父」と、文学において対決する財部の詩、あるいは、オランダでゲットーを監視する役目についた「ユダヤ人」、いわゆるJudenSSという信じられないような役割を果たしていたジャック・プレセールの恐るべき物語『ジロンド党の夜』(Jacques Presser, La nuit des Girondins)などにも、やはり関心が向いてしまうのだった。

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コメント

>「邪悪さを内面化してしまったら」、つまり、邪悪さについて「誰も語らなくなってしまったら」、そのときこそ、「最終的解決」は実現することになる

この一節にピンときました。

僕なりに考えると、邪悪さは決してなくならないという前提で生きよ、ということなのかな、と思います。ある心理学の先生の図式で「安心社会より信頼社会を」というのがありますが、安心とは、百パーセント悪とは無縁でいたい、ってことですよね。で、信頼とは、善と悪のグラデーションです。安心社会なんて、農村共同体と同じ仕組みで、再現はほぼ不可能です。だから、安心を! には五人組がついて回る。生=政治なんていうまでもなく。

ただ、他方では、悪=沈黙だろうと思うんです。とすると、いくら語り続けようが、悪は決してなくならない、ってことになります。言葉って、どんな言葉であろうと、憎悪の言葉であろうと、何らかのコミュニケーションを促し、その結果は、少なくとも最悪ではないはずです。

つまり、いくら語ろうとも、ある日突然頭の上で爆弾が炸裂したらおしまいだ、というのが、幼少期にヒロシマで教育を受けた者の実感なんです。

悲観的なコメントすみません。

投稿: 自力文団 | 2006.08.22 03:30

>自力文団さま
示唆的なコメントをどうもありがとうございます。
「邪悪さは決してなくならないという前提で生きよ、ということなのかな」とのこと。私も本当にそう思います。

その前提に立った上で、自分がいつ「被害者」となるか、というだけではなく、いつ「加害者」となっても不思議ではない、という想像をめぐらすことからしか、「悪」の効果的な分析はできないように思っています。爆弾を炸裂させるのもまた人間だという点から考えようとする私は、あまりに人間主義的というか、楽観的なのかもしれません。

「安心より信頼」という言葉から、ふとフランスのニュースが頭に浮かびます。何らかの事故のニュースを伝えながら、キャスターが「100%危険がない状況なんてありえないのだから」と言っていたのです。このとき、私はとてもフランス的な考え方だなぁと思うと同時に、100%の安全などありえないという、ある意味では当たり前のことを確認させられたのでした。

とりとめのない返事になってしまって済みません。こんなブログですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

投稿: 安原伸一朗 | 2006.08.22 10:09

お返事ありがとうございます。

「人殺しはいけない」という言い方は、今日も起こりまた明日以降も確実に起こる殺人事件に対してほとんど無力であり、それを口にする人たちの罪滅ぼし的な善性を内々に確立するだけですね。だから、おっしゃるように「いつ<加害者>となっても不思議ではない、という想像をめぐらすこと」が、非常に大切です。この点については、まったく同感です。

ただ、あえて粘りますが、僕だったら「爆弾を炸裂させるのもまた人間だ」とは言いません。このような言い方は、知的な議論の中でしか真価を発揮しません。安原さんの意図は、僕にはよくわかりますが、このような、あえていえばポストモダン的論調は、今日、30歳以下の若者の無視できない部分において、凶器として再利用される恐れがあります。

僕としては、人殺しは、自分も殺されるかもしれないからダメなのではなく、自分も殺すかもしれないからダメなのだ、ということを、もっと緊密に、誤解の余地を与えないように言い表したいと思っています。思考の糧を与えてくれたことに改めて感謝します。

投稿: 自力文団 | 2006.08.22 19:04

>自力文団さま
こんにちは。コメントをどうもありがとうございます。

なるほど、言葉が「凶器として再利用される恐れ」をもっているというご指摘。私にはなかなか思い至らない視点なので、とても参考になります。ありがとうございました。ときに、「ポストモダン的」という言葉には、いささか驚きました(笑)。私はポストモダンが何なのか、よく分からないのです。

ところで、私の知る若者たちには、自分の言葉で考えようとする人たちが少なからずいるので、私はきっと楽観的になってしまっているのでしょう。でも、若者について(実は自分もまだ若者のつもり)私の知っていることは、あまりに少ないのかもしれません。

マイペースなブログですが、こちらこそ今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 安原伸一朗 | 2006.08.23 08:14

安原さま
こんにちは。こちらのブログには「ジロンドの夜」を調べているときにたどり着きました。おかげさまでいろいろ勉強させていただきました。
ナチス幹部や各国の国家社会主義党員の家族、子弟たちの境遇やその後の生き方に興味があります。またドイツ人との間に生まれた被占領国の子供たちについても、かなり読みました。
 最近、ドゥグレル(ベルギー)の姉か妹が、戦争中ユダヤ人を家に匿っていた、それも堂々と女中として…という話がおもしろく心を打ちました。
 安原さまは「ジロンド党の夜」お読みになりましたか。いつか感想をお聞かせ下さることを期待しております。
 また時々まいりますね。では・・・
ヒロコ

投稿: ヒロコ | 2013.12.23 12:53

>ヒロコさま
はじめまして。ブログをご覧くださり、ありがとうございます。また、ドゥグレルの家族の話は知りませんでした。ご教示ありがとうございます。

ところで、「ジロンド党の夜」は、かなり以前に読んだのですが、フィクションと歴史との関連を考慮に入れねばなるまい(たとえばエティ・ヒレスムの手紙と対照させることなど)、と思った記憶があるものの、すでに多くを忘れてしまいました。済みません。確か、主人公の男が何度か、「自分が一人前になる」過程として、眼前の困難な状況を捉えていたような気がしています(うろ覚えです)。
「拒否しなければならないし、いつだって拒否できるのだ」というようなプリーモ・レーヴィの序文が付されていたかとも記憶していますが、あまり定かではありません。

こんなマイペースなブログですが、今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 安原伸一朗 | 2013.12.24 17:01

安原さま
 お返事ありがとうございます。
「ジロンド党の夜」かなり興味がわいてきました。いずれ読んでみたいと思います。

 Hannah Nadelの話はここで読めます。これはベルギーのオランダ語新聞De Standaard紙のまとめです。
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2228735/Hanna-Nadel-How-16-year-old-Jewish-girl-escaped-death-sheltered-sister-Belgiums-notorious-Nazi.html

 お体気をつけて、よいお年をお迎えください。

投稿: ヒロコ | 2013.12.25 12:01

>ヒロコさま
さっそくのご教示、ありがとうございます。

この記事からは、個々人が生きるために政治があるはずなのに、いつの間にか政治的大義が罷り通るようになってしまう、そんななかでも、いつだって個人として振る舞うことは可能なのだ、ということを痛感させられますね。

今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 安原伸一朗 | 2013.12.26 09:43

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