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不思議な家族の話

・J.M.クッツェー 『マイケル・K』(くぼたのぞみ訳、ちくま文庫)

このところかなり慌しく、情けないことに、ほとんど本が読めない日々が続いていた。本書は、久しく絶版だったクッツェーの作品が、改訳の上で文庫に収められたもの。クッツェーは去る9月30日に日本で講演したが、ベケットの話題を模倣しつつ自分の問題意識を織り交ぜてベケットについて語るという、きわめて刺激的な話だった。また、英語を読むのがとても遅い私には、クッツェーの来日に合わせて、彼にかんする日本語での最初の研究書が出版されたのも、とても嬉しいことである(田尻芳樹編、『J.M.クッツェーの世界』、英宝社、2006年)。

本書は、内戦の始まった南アフリカが舞台となっている。知的障害を疑われる主人公のマイケルは、病気の母を手押し車に乗せて、ケープタウンから、母の故郷プリンスアルバートまで歩いて移ろうとする。道中、母は亡くなるが、マイケルはその遺骨を、戦時下で荒れ果ててはいるがおそらくは母が昔過ごしたであろう農場にばらまく。マイケルは、そこに留まり、自給自足の生活を送ろうとするものの、脱走兵に絡まれたり、キャンプに収容されたり、簡易病院に入院させられたりする。しかしそのたびに、マイケルは、自由を求めてさすらい、「たぶん、真実は、キャンプの外にいるだけで十分ということなんだ。ただし、あらゆるキャンプの外にいること。」と述べるのだった(267ページ)。

マイケル・Kという名前からは、もちろんカフカが想起される。実際、マイケルもまた、不条理なまでに運命に弄ばれるかのように見える。だがマイケルは、徹頭徹尾、自らを恃む人でもある。捨てられた農場でただ一人暮らすマイケルは、自分の植えたカボチャを一人きりで食べる。

「やがて十分に熟れた最初のカボチャを切る夕べがやってきた。[…]教えられたことばを唱え、空に向かってではなく、いま跪いている大地にそのことばを捧げながら彼は祈った。「われわれが受け取ろうとしているものに対し、心から感謝の気持ちを捧げます」[…]ついに成就されたのだ、彼は独り呟いた。あとは、残りの人生を、自分の労働によって大地から生み出される食べ物を食べて、ここで静かに暮らしていけばいい。土のように優しくなりさえすればいい。」(166ページ)

食べるという行為について、クッツェーは至るところで考えを述べていて、この点は以前に少しだけ考えたことがある。ここで気になるのは、むしろ、このような自恃の人物であるマイケルが、自分ではそうと思わずに、いつの間にか周りから超越しているように、周りの人々から思われている点である。マイケルは収容された簡易病院で絶食し、痩せ細る。そんな彼を心配する医師とは、次のような会話が交わされる(なお、3部構成の本書は、第2部だけ、医師の視点から一人称で語られている)。

「「どうしたらきみは食べる気になるんだろうな?」あとから彼[マイケル]にたずねてみた。
彼が長いあいだ何も言わなかったので、てっきり眠ってしまったんだと思った。すると咳払いをした。「これまで、俺が食う物にこんなに気をつかう人はいなかった。だから理由は俺のほうがききたいくらいだ」
「理由はきみが飢えて死ぬのを見たくないからだ。ここでだれかが飢えて死ぬのを見たくない」
[…]
彼は私[医師]の言うことを聞いていたのだろうか。まるで失いたくないまとまった考えでもあるかのように、裂けた唇が動きつづけた。「自分で思うんだ、俺はこの人にとって何なんだって。自分でも思うんだよ、俺が生きるか死ぬかが、この人にとっていったい何なんだって」」(219ページ)

この医師は、マイケルを理解できないことに苛立ち始め、終いには叫んでしまうのだった。だが、マイケル自身は自分の超越性にまるで頓着しない。彼は、自分のことを動物に喩えるのだ。

「人は俺が生きてきたすべての檻について聞きたがる。まるで俺はセキセイインコか白マウスか猿か何かのようだ」(265ページ)。

そんなマイケルは、最後に、「モラル」に考えをめぐらせながら、「大地」を思い浮かべるのである(268-269ページ)。

ところで、猿と言えば、『エリザベス・コステロ』(鴻巣友季子訳、早川書房、2005年)のなかで、コステロが、カフカの短編「ある学会報告」に登場する猿を引き合いに出して「リアリズム」について語っていたことが思い出される。

また、『コステロ』や『動物のいのち』においても、『マイケル・K』においても、あるいはその他のクッツェーの作品についても、私にとって非常に気になるのは、「家族」の話である。クッツェーの作品に舞台設定として登場する家族は、みな、偏っているからだ。私の知る限り、それらは、母と息子(『コステロ』や『マイケル・K』)、父と娘(『恥辱』)、父と息子(『ペテルブルクの文豪』)の関係なのであり、両親と子供といった関係や夫婦の関係はあまり見られないのだ。しかも、それら家族の関係は、すでに破綻しているか、あるいは徐々に壊れていくか、あるいは、壊れないにしても微妙な距離を示すのである。

オーストラリアに住む作家コステロは、息子がいなければアメリカでの講演には出席しなかっただろうと思い、息子も息子でそう思っている。「彼がこうして付き添っているのも、愛情ゆえだ。息子の助けなしに母がこの試練を乗り切れるとは思えない」(7ページ)。

だが、そんな愛情深い息子も、帰りの飛行機でだらしなく口をあけて眠りこける母を前にして、次のような感想を抱く。

「彼の目には、母の鼻の穴の奥が、口の中が、喉の奥までが見える。そのうえ、見えないものも想像できる。たとえば、食道も。ピンク色で、醜くて、食べ物を飲みこむたびに収縮する、大蛇のような、洋梨型の胃袋までものを引きこむ、食道。彼は身を引き、自分のシートベルトを締めると、背筋を伸ばして前を向く。いいや、違う。彼はひとりごちる。俺の出所はそんなところじゃない。ああ、違うとも」(45ページ)。

またしても、食べるということにかかわる記述ではあるが、母に付き添ってアメリカまでやって来るような息子は、残酷なまでに冷徹な観察を行なう。彼は言わば、身体的な意味でも精神的な意味でも、「見たくないところ」を直視しているのだ。まるで、人を「動揺させる」ことが「存在意義」(10ページ)かもしれないような母に対して復讐するかのように。このような距離は、なぜ、どこから、描かれるのだろうか。

クッツェー自身、長男が若くして自害しているという悲痛な経験をしている。だが、果たしてそうした伝記的事実からのみ、クッツェーによる家族の描き方が説明できるのだろうか。今後、勉強しながら、考えてみたいところである(それにしても、「今後」考えてみたい問題はいつ考えられるのだろう?)。

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