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苦い過去を振り返ること

・ジャン・アメリー 『遍歴時代』(富重純子訳、法政大学出版局、2000)

本書は、ジャン・アメリーによる自伝めいた作品。ジャン・アメリーは、本名ハンス・マイヤー。ウィーンに生まれたユダヤ人の彼は、1938年にベルギーに亡命したものの、当地でレジスタンスに参加した廉で1943年逮捕され、アウシュヴィッツ、ブーヘンヴァルト、ベルゲン=ベルゼン収容所に送られる。1945年に解放された後ブリュッセルに住み、ドイツ語の本名に代えてジャン・アメリーというフランス語風のペンネームを用いて文筆家として活動し、1978年にザルツブルクにて自害している。

本書の性格について、アメリーは冒頭で次のように記している。

「ここに連ねた文章は自分自身を尋問する試みであり、ふりかえること四十年にわたる。自伝的でもあり、時代の伝記的でもある。」(5ページ)

この言葉の通り、本書には、アメリーの教養が育まれた個人史と、アメリーが眺めた時代とが渾然一体となって描き出されている。ナチズムの台頭する時代に送られた青年期、サルトルに代表されるフランス文化への憧憬、戦後ドイツの知識人たちやドイツの復興への違和感、構造主義に対する反感……これらが塊をなして記述されるがゆえに、本書はまるで直線的な展開を見せず、いささか読みにくい。

それでも、過去を振り返るに際して、事後的な視点をできるだけ排するという姿勢は貫かれているかに思われる。

「後になってから、実際に存在するものの重量のすべてをひっさげて、必然性として姿を現したもの、それを前もって見通すなどありえなかった。後に正しかったことになった者は、ひょっとすると、現実となったことにただ偶然賭けたのであって、犬も歩けば棒に当たったのである。」(14ページ)

事後から行われる判断を拒絶するこのような姿勢は、しかし、アメリーに相対主義をもたらすのではなく、歴史を生きることこそ道徳的に存在することを可能ならしめる場合があるという認識をもたらす。彼は、「道徳的に存在するためには、歴史的にその中にいなければならない時代があるのだ。[…]道徳的に存在するものだけが、歴史的に在り、行動する権利を有する」と断言する(68-69ページ)。

そもそも、私が研究対象として掲げている「収容所文学」という表現は、「littérature des camps」というフランス語をそのまま訳しただけなのだが、とても居心地の悪いものであり、その居心地の悪さだけは忘れないように心掛けているつもりではある(そもそもこのような研究対象は大声で言うようなものではあるまい)。それでも、アメリーのこうした言葉を目にすると、思わずヒヤッとさせられる。自分が収容所文学を研究する資格などあるのかという、普段は意識的にも無意識的にも抑えている絶望的な疑問が頭を持ち上げてくるからだ。これは私にとって、とても貴重な瞬間である。

ところで、本書の読み辛さはまた、彼が「自分自身を尋問」しているからでもある。実際、本書では、「私」という一人称で書かれているかと思いきや、「おまえ」という二人称、さらには「彼」という三人称が、過去のアメリーを指すために用いられるのだ。現在の地点から、過去を判断しない、とはいうものの、また別の、苦く痛々しい呪詛の声が彼を刺しぬく。

「人間に対して、十分に寛大であることは決してできない。人間とはその身体的に損傷を受けやすいありようが、内から摩滅させ、飲み込んでしまうものなのである。彼は何もしなかった。歳月が過ぎて後、小学校最高学年の教科書の中から、一つの詩句が思い出された。かなり滑稽な詩句だったが、その根本的悲劇は、歴史的美的滑稽さによって破壊されえなかった。「闘いに彼は備えようとした/だがじきに、萎えて彼の手は垂れた/それは竪琴の優しい弦を……」。この手は、竪琴などはなから関係なく、彼がまったく闘いに備えなかったにもかかわらず、上げるより先に萎えていた」(70ページ)。

「身体的に損傷を受けやすいありよう」という箇所は、アメリーの『罪と罰の彼岸』に記されている「拷問」の章を想起させるが、反抗しなかった過去のおのれに対して、「彼」と呼び、その彼を糾弾する声が内側から響いてくる。

ここで、戦前の立場はまるで異なるが、モーリス・ブランショの『問われる知識人』が脳裡をよぎる(拙訳、月曜社、2002年)。ブランショは本書で、レオン・ブルムへのテロリズムを主張したような過去の自分に対して、文章を紡いでいるかのようなのだ。だが、ブランショの場合、アメリーとは異なって、自分の事柄は文章にはいっさい記されない。自分への言及のこうした欠落がかえって目を惹くのであり、末尾の注記に至って初めて読まれる、「このノートは、そもそも発表を意図して書かれたものではない」との言葉によってのみ(64ページ)、本書はかろうじて、しかし決定的に、自身の過去に繋ぎ止められている(この点を、『批評の批評』におけるツヴェタン・トドロフは軽んじているように思われる)。

自己に言及しないという形においてであれ、自分を「おまえ」ないし「彼」と呼ぶやり方によってであれ、重大な過去を振り返り、「尋問」し続けるということは、痛みを伴わずにはいられないことだろう。それに耐えられるのが、まさに知性というものなのかもしれない。

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コメント

タデウシュ・ボロフスキ、プリーモ・レーヴィも同様に知性によって生きていたかに思われます。
ツヴェタン・トドロフの考察はまだ読み終わってないのでなんともいえませんが、3者とも人間の普遍性に賭けたのでしょう。
そこをつなぎとめるようにV・E・フランクルがいるのではないでしょうか。
我々は知らなくてはなりません、彼らによって今現在生きていることを。

投稿: ひろし | 2016.07.14 10:27

>ひろしさま
コメントをどうもありがとうございます。
仰るとおり、ボロフスキもレーヴィもフランクルも、人間という譲れない一線を「知性」でもって提示しているのでしょうね。
今後も、勇気をもらうなどというのとは別の仕方で(というのも虐殺や拷問はそもそも起こってはならないものですから)、彼ら彼女らの文章を考えていければと思っています。

投稿: 安原伸一朗 | 2016.07.20 08:44

先にコメントした者です。
現在、厚木の私立大学に通っており、卒業研究で「ショアー」の事を調べていて「同じ研究をしている人がいるならばコンタクトをとれるようにしておくといいのではないか」と担当の先生に言われ、再度ここにコメントした次第です。
私自身も同じ研究をしている人を知り、とても心強く感じました。連絡を頂けると幸いです。

投稿: ひろし | 2016.07.28 19:28

>ひろしさま
返信がたいへん遅くなり、申し訳ありません。
ショアーについては、私などより詳しい方が日本にもたくさんいらっしゃいますが、研究がこれまで以上に少しでも盛んになればうれしい限りです。

投稿: 安原伸一朗 | 2016.08.15 14:41

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