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笑いと悲惨の現実

・早坂隆 『日本の戦時下ジョーク集』 満州事変・日中戦争篇、太平洋戦争篇(中公新書ラクレ)

この二冊の本は、タイトルどおり、1930年代から1945年までの漫才やジョークを、種々の文献から拾い集めたもの。満州事変・日中戦争篇の「あとがき」に見られる次のような文言に心惹かれ、読んでみた。曰く、

 「あの戦争が悲惨なものあったことなど、今の日本人は誰でも知っている。しかし、そんな戦時下においても、したたかに逞しく生活していた庶民の力は、ややもすると見落とされがちである。
 教科書にあるような、政治的な事柄だけでなく、市井の人々の等身大の笑いや日々の生活を触媒としてあの時代を見ていくと、それまで乖離していた戦時下の人々との距離感が徐々に縮まっていく。」(p.204)

この言葉に私はいたく頷いてしまう。1972年の日本に生まれた私は、幸運なことに、戦争を体験としてではなく知識としてしか知らないわけだが、それゆえ、恐ろしいことでもあるが、戦争のリアリティをうまい具合にはなかなか想像できないでいる。とりわけ60余年前に日本が経験した戦争中の生活については、私の想像など、おそらくはあまりに悲惨であるか、あまりに能天気であるかのどちらかであろうし、あるいはそのどちらでもあるだろう。

そのようななかで、「国民生活が圧迫され、悲惨な敗戦へと向かう中でも、庶民は逞しく「笑い」を手放さなかったのではないか」という本書の視点は(満州事変・日中戦争篇、p.5)、当時の現実にかんする私の想像を大きく拡げてくれる。

本書には、吉本の芸人たちの漫才のほかに、雑誌に掲載されたジョークや、軍歌の替え歌、落書きなど、さまざまな笑いの種が集められている。本書に収録されたジョークがどのような基準で選ばれたのか、あるいは手に入る限りすべてのジョークを収めているのかは詳らかにしないが、それでも、本書を見る限り、1943年以降は目に見えて、冗談や小噺が戦局を題材に取るようになっている。国が上り坂のときは調子の良い笑いがあふれても、いったん負け戦となるとその笑いは乾いてひきつっていくかのようである。なるほど、本書を読んでも、実際に、これらのジョークがどのようにウケていたのか、分からない。それでも、それらの冗談や漫才が作られ受容されていたという状況の、「雰囲気」はよく伝わってくる。

よくよく考えてみれば、人々の日常を毀すことはきわめて難しい。第二次大戦末期、連合軍による空襲によってハンブルクやドレスデンなどの主要都市が壊滅したドイツにおいて、人々が「日々のしきたり」に戻ることによって冷静さを失わないように努めていた事実について、W.G.ゼーバルトは次のように述べていた。以下は私の戯訳。

「[…]いわゆる「冷静さを保つ」ためのもっとも自然で確実な方法とは、またしても、起こったカタストロフを超えて、日々のしきたりを取り戻すことだった。[…]この状況下に、第三帝国の時代とその崩壊時に音楽が演じた役割が見出される。時局の深刻さが喚起されねばならなくなると、いつも、人々はオーケストラを求めたのである。片や体制側も、交響曲の最終部で表現されるような自信に満ちた姿勢を我が物としてきた。だが、ドイツの各都市が絨毯爆撃に晒されるようになっても、何一つ変わらなかったのだ。アレクサンダー・クルーゲは、ハルバーシュタットが空襲される前夜、ラジオ・ローマが『アイーダ』を放送したことを覚えている。[…]「瓦礫の山。その下には累々たる死体。その上には星々。動くのはみんなねずみだ。夜、『イフィゲーニア』」とベルリンでマックス・フリッシュは記している」(W.G.Sebald, La destruction comme élément de l'histoire naturelle, trad. de l'allemand par Patrick Charbonneau, Actes Sud,  2004, pp.51-53)

ここに、ゼーバルトの言うように、日々の営みの強かさのみを見ればよいのか、あるいはそこに音楽の力を認めることができるのか、私はにわかには判断できない。ともあれ、生き延びれるかどうか分からない空襲の直前に、あるいは辛うじて生き延びた後に瓦礫のなかでオペラだなんて、驚きではある。

だが、そういうものなのだと私は思う。規模や性格はまるで異なれど、地下鉄サリン事件という思いもよらぬ悲劇に突如として襲われた人々をインタヴューした村上春樹の『アンダーグラウンド』を読んだ際にも思ったことだが、人間は、自分の身に何が起こったのかまるでわからなくなったとき、まずは日々のしきたりに戻ろうとするのだった。おそらくそれのみが、見失われた自分と厳として存在する世界との間の唯一の繋がりとなるのだろうし、それが一部のドイツ人にとっては、音楽だったのかもしれない(でもそれだけの理由で、瓦礫の中で音楽が求められたようにも思われないのだが……)。

日常が完全には毀されないままに悲惨が出来するがゆえに恐ろしいと考えるべきなのか、あるいは、惨状の最中においても日々の営みが破壊されないがゆえにそこに人間の逞しさをみるべきなのか、私にはわからない。たぶん、そのどちらでもあるだろう。だが、このように述べただけではほとんど何も言ったことにはならないのであり、私はきっと、さらに多面的に「現実」(そもそも語りつくせないものではあろうが)に迫っていかねばなるまい。

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