ことばの起源についての異聞
・ピエール・パシェ 「死者を語る、死者に語る」(拙訳、『文学』3・4月号、岩波書店、2008)
今回はすっかり宣伝になってしまい恐縮なのだが、雑誌『文学』の最新号がパシェについての小特集を組んでくださり、光栄にもそこに参加させていただいた次第。まだ日本で翻訳の出ていないパシェについて雑誌で特集が組まれるとは、まことに驚嘆すべきことであると同時に、とても嬉しいことでもある。
本論は、パシェが、日本フランス語フランス文学会の2007年春季大会にて行なった記念講演の拙訳。講演を聴いたときには彼の洞察にいたく感動したのだが、文章としてあらためて読んでみても、とても味わい深いものだと感じられた。拙訳は原文の呼吸を上手に伝えられておらず、おのれの非力を呪うばかりだが、実のところ、訳しながら心打たれて思わず涙が滲むような経験をしたのは、今回が初めてだった。
パシェが題材に取り上げるのは、ソポクレスの『エレクトラ』である。トロイア戦争から帰ってきたアガメムノンを待ち受けていたのは、妻クリュタイメストラとその愛人アイギストスによって殺されるという運命だった。だがこの二人の首謀者もまた、アガメムノンとクリュタイメストラの子供であるオレステスとエレクトラによって斃されるのだった。
パシェは、この悲劇の登場人物たちがおしなべて、死者を死者として認識しながら、同時に、死者をあたかも生者のごとく考えているという点に注意を向け、次のように述べる。
「私たち自身の経験として考えるならば、『エレクトラ』の悲劇が示しているのは、死者たちが、不在や無へと還元されてもなおそこに姿を現す限りにおいてのみ、世界は人間的なものとなる、ということなのである。」(pp.222-223)
まさにこの矛盾を抱え込むことが死者への向き合い方であり、そのように向き合うことによって初めて、世界は人間が生きられるものとなり、人間は人間になる、というのだ。なんと勇気湧く文言であることか。
そしてパシェによれば、この矛盾を引き受けるものこそ、ことばなのである。彼は、ことばが、目の前の人と意思を疎通させるために生み出されたものではさらさらなく、逆に、「耳を傾けることのできない人々に語りかけるためにこそ文章を整え表現を作らねばならないのであり、身振りによっては示しえない事柄を喚起しなければならないのである」という(p.223)。パシェは、『文学』のこの特集に収められた別の文章において、「子供がしゃべりはじめるとき、必ずしもそばにいる人にしゃべりかけるわけではない」とも記していた(「独りでしゃべる」、根本美作子訳、p.208)。
ことばは現前や距離といった尺度にはなじまない。この考えは、ふつう想定されるような、ことばをまずはメッセージとして考える思考から大きく隔たっているが、それでも、とても説得力のあるものに思われる。
(2008.4.14追記 拙論では触れることができなかったが、パシェが数年来行なっているセミネールは「感情批評(critique sentimentale)」と題されている。フロベールの小説を髣髴とさせるタイトルをもつこの授業は、各回、古今東西の文学作品を読み解いていくものである。一見すると、単なる読書感想が述べられるかに思われかねないが(実際、勘の鋭くない人はそう思ってしまうかもしれない)、私見では、パシェの試みは、現実の姿を文学作品に読み込むのではなく、作品を読むことで現実を問い直すという点に存している。今回『文学』に訳出した文章においても、その姿勢は貫かれているように見える。)
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コメント
吉報ですね。今日購入しに行きます。
ここで語られていることは言語をコミュニケーション手段と限定する見方からすれば、たとえばぼくなどもコミュニケーション手段だとばかり考えるきらいがあり、そうした発想から大きく隔たっていますが、そうだとしても引用文で展開されている彼の思考に引きずられてみたい気持ちが湧いてきます。ことに「死者たちが、不在や無へと還元されてもなおそこに姿を現す限りにおいてのみ、世界は人間的なものとなる」という場合の「世界は人間的なものとなる」の部分をじっくり考えてみたいです。ありがとうございます!
投稿: gikyoudai | 2008.04.13 13:10
>gikyoudaiさま
温かいコメントをどうもありがとうございます。今回の『文学』には、ほかにも根本さんの論考などが収められています。
「人間的なものとなる世界」との表現に注目されるとのこと。私はあまり深く考えず、この世は死者とともにあるという程度にしか読んでいませんでしたが、確かにややこしい文言ですね。
拙訳などをgikyoudaiさんに読んでいただけるのは、とても嬉しく思います。今後ともよろしくお願いいたします。
投稿: 安原伸一朗 | 2008.04.14 08:45