死者からの言葉
・渡辺哲夫 『死と狂気』(ちくま学芸文庫)
恥ずかしながら積読だったが、自分の視野を広げ、死を描くということについていろいろな角度から考えておきたいと思い、今回読んでみた。
本書は、精神科医である著者による、統合失調症の患者6名の観察と、その観察から導き出された考察である。本書から感銘を受けたことの一つは、著者の視線の、いわばしっかりとした慎ましさである。「文庫版あとがき」で渡辺は次のように記している。
「本書が文庫化されて、より多くの読者と出会う機会を与えられたことを私は有り難いと思っている。有り難いとは思っているが、しかし、単純に喜ぶ気にはなれない。理由はただひとつ、本書に書かれていることが悲惨に過ぎるからである。」(p.250)
つまり、本書で観察されている人々を読者の好奇の目に晒すことは憚られるのではあるまいか、との逡巡である。こうして邪な興奮を避けようとしている本書は、しかし、きわめて刺激的な考察に満ちている。
渡辺は、絶対的に理解不可能な死と、触知可能な死者との区別が、狂気にあっては消滅してしまうという。その消滅は、次のような死者の存在の二重性が消し去られてしまうことによって起こる。
「死者の「顔」は誰かの「顔」である。しかし死者の存在性格は「顔」をもち得ず、誰でもあり得ない。」(p.25)
死者はつねに、「誰か」であると同時に、先行する無数の死者たちの群れのなかに誰とも区別されぬままに紛れ込んでいる。そして、死者を近しかった個人としてと同時に死に切った者として捉えることは、狂気においては困難になる、と渡辺は言う。死者のこの二重性については、モーリス・ブランショの一節が思い起こされもしよう。彼は次のように記していた。以下は私の戯訳。
「死はつねに一つの任意の死である。この点から、死んだばかりの人に対して例によって近親者たちの示す個別的情愛の印は場にそぐわないものだ、との思いが生じてくる。というのも、ここに至っては、遠近の区別は必要なくなるからだ。唯一の正統な涙とは非人称の涙であり、「ひと」として無関係であるがゆえに前面に出ることになる泣き女たちの普遍的な悲しみである。死は公共のものだ。」(Maurice Blanchot, L'espace littéraire, Folio, p.324)
死者はいつも、かけがえのない誰かであり、なおかつ誰でもない非人称である。当然といえば当然だ。ところが、渡辺はさらに歩を進めて、このような二重の死者こそ、生者の言葉を可能にしているのではないか、と考えるのである。
彼は、患者たちを観察する中で、常識的な論理構造を甚だしく逸脱していく彼らの言葉が、「独語」としての性格をもっていることに注目する。
「私の経験によれば、言葉の根柢的な特質である他者性をその構成契機として必要としない一切の言葉が、発生の有無にかかわらず、独語なのである。言い換えるならば、言語的文節世界という他者から排除され、言葉を主体的に収奪限定する機会を失ってしまった独裁者が、自力で創造せんとする新たなる言葉、ネオ=ロゴスこそ独語にほかならない。」(p.99)
死者の二重の性格を狂気のうちに見失ってしまった人々の観察を通じて、渡辺は、「他者」を「自己」の対概念としてのみ捉えるような、生者中心ともいえる観点を強く退ける。使者としての「他者」は、「自己」によって発見され、崇められたり弔われたりするのではなく、逆に、「最広義における世界存在の意味文節のすべてが、死者たちの力によって構造的に決定されているのである」(p.86)。
言葉、現世の意味体系、ひいては主体としての在り方そのものさえ、生きる者によって獲得されるものでも発見されるものでも構築されるものでもなく、まずは、死者からの贈り物なのだ。さらに、死者とは過去の存在というだけではない。「私は、今、未来から発して主体を限定し支える力もあるのではないか、と考えている。つまり、未来仏による生者の歴史的構造化ということ」と渡辺は記す(p.175)。死者こそが、生者の意味世界の存立を可能にし、過去・現在・未来からなる生者の時間的な在り方を可能にしているという、このような考えは、渡辺がいつも具体的な事例に立ち戻るがゆえに、とても説得力がある。
ところで、この思考は、まったく異なる文脈ながらも、以前紹介したピエール・パシェの思想を想起させる。無意識なるものを好まず、夢は意識の一段階であると考えるパシェと、「安易な感情移入と精神分析学的な平板な解釈」を拒否しつつ『シュレーバー回想録』を訳している渡辺とは、アプローチこそまるで違えど、実はかなり近いところに立っているのではなかろうか。ともあれ、パシェは、ソポクレスの『エレクトラ』を読み解きながら、次のように述べていた。
「私たち自身の経験として考えるならば、『エレクトラ』の悲劇が示しているのは、死者たちが、不在や無へと還元されてもなおそこに姿を現す限りにおいてのみ、世界は人間的なものとなる、ということなのである。」(「死者を語る、死者に語る」、拙訳、『文学』2008年3・4月号、pp.222-223)
パシェのこの言葉は、渡辺の発する、「死者の発見は、ある種の狂気の人々においてのみ要請されていることではない。われわれの足もとに無底の空洞がひろがるまえに、われわれも、死者を発見しなければならない。死者が本当に見出されるとき、われわれが想像もできなかったような流れが、死者の贈与という名の流れが、堰を切るであろう」との文言と(p.241)、ぴたりと重なり合うのではないか、そう私には思われるのである。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

![: ふらんす 2009年 10月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51hvsjMvMtL._SL75_.jpg)






















最近のコメント