文学は革命、という時代
・Laurent Jenny, Je suis la révolution, Belin, 2008
本書は、私の恩師の一人であるローラン・ジェニーの最新刊。最初に留学したジュネーヴ大学で彼に出会わなければ、クロード・ムシャールをはじめとする多くの人と知り合わなかったことだろう。それにしても、フランス語もままならぬ留学生の面倒をよく見てくださったものだと、今さらながら感謝に堪えない。事前に語学研修を受けたにもかかわらず、彼の最初の授業はさっぱり理解できなかったことを思い出す。その後、毎週のようにオフィスアワーに押しかけては前回の授業で不明な点や疑問点を質問した私に、ジェニーはいつも、とても丁寧に説明し直してくださったのだった。
『私は革命である』という挑発的な題の本書は、「1830年から1975年にかけて、フランス文学の中でももっとも革新的なものは、いつも革命と自己を同一視してきた」との主張で始まる(p.5)。文学者からなされる文学と革命との同一視は、ヴィクトール・ユゴーを皮切りに、以後、紋切型となり、20世紀末に『テル・ケル』グループの行き詰まりとともに終焉を迎えた、と論じる本書で取り上げられるのは、シャルル・モーラス、シュルレアリスム、モーリス・ブランショ、ジャン・ポーラン、ロラン・バルト、ジャン=ポール・サルトルらをたどる、フランス近現代文学の一つの歴史である。
ユゴーにおいて確立された文学と革命との同一視は、けっしてフランス革命から直接的に生まれたものではなく、彼自身の文学の発展につれて生じてきたものだと、ジェニーは言う。1820年代前半ではまだ、ロマン主義という文学的革新とフランス革命という政治的革命との同時性が指摘されるにとどまっているが、1830年の『エルナニ』序文において、「文学上の自由は政治的自由の子供である」と述べられる(p.21に引用)。そしてユゴーは、自分の詩学と詩作を「革命」という言葉で表現し、伝統という桎梏から解放した語の超越性を認め、最終的に、ダントンやロベスピエールの印のもとに自らの姿を描き出すことになる。
語(つまり個人と重ね合わされるわけだが)の解放からなるユゴーの詩学に対して、古典主義はフランス革命で滅びるどころかそこで頂点に達し、語が解放されるのではなく語を統合する文の詩学がもたらされたとみなすイポリット・テーヌを経て、モーラスは、政治的次元と言説の形態との関係を考察しなかったユゴーに、混乱の極みを見て取るのだった。
その後、1924年に宣言の出されるシュルレアリスムにおいては、モーリス・バレス、アナーキズム、そしてフランス革命直後の恐怖政治という三つの源流から「革命」にかんする思想が汲まれているという(p.62)。そのシュルレアリスムにおいては、1930年代中葉にいたって、「自動筆記が内在的に革命的なもの」になる(p.106)。
1930年代以降のブランショとポーランの擦れ違いと対話から見えてくる二人の相違について、ジェニーは次のように、簡にして要を得た形で述べている。「定型句は、ブランショにとって、おのれ自身しか告げず、誰の声も表現せず、おのれ自身の意味のうちに消え去る純然たる言語であるのに対し、ポーランにとっては、対話者との共同作業を通じて意味を確立していく、実践的ゲームの素材である。ブランショにとって、政治において私たちが共通にもっている唯一のものが拒絶の否定性、すなわち革命であることは、別に驚きではない。その場合、民主主義は、政治的なものが崩壊したときに肯定される。反対に、ポーランにとっては、民主主義は、私たちを結び合わせる恣意的な象徴に意味を与えようというたえず刷新される努力を通じて、恐怖政治の誘惑に打ち克つ形で日々打ち立てられている」(p.155)。つまり、文学を誰のものでもないものとし、歴史の途絶に置こうとするブランショに対して、ポーランは文学を皆のものとし、日々に見出そうとするというのである。
20世紀半ば、理由はまったく異なれど、「革命的エクリチュール」は存在しないとの認識において、サルトルとバルトは意見を同じくしたかもしれないが(p.157)、永久革命を社会に求めたサルトルに対して、バルトは言語そのものに求めた、とジェニーは言う(p.178)。そして、シュルレアリスムと同様、「文学と精神分析とマルクス主義を「革命的」実践において統合しようとする」『テル・ケル』の人々は、毛沢東に、詩人の姿を見ていた……
そもそも、文学を政治的な意味合いの言葉づかいで語ることには歴史がある、との本書での確認は、私にとってとても貴重だった。このところ、なぜ「革命」や「抵抗」などといった勇ましかったり物騒だったりする表現で文学が考察されるのか、私にはよく分からないのだ。この点について、幅広く考えていければと思っている。その意味で、「[革命の比喩を捨てた文学に]自分としては、とりわけ、自分たちの言葉と和解するチャンスを見ている」というジェニーの結論は(p.213)、穏やかではあるけれど、むしろ穏やかであるからこそ――本書の刺激的なタイトルとは裏腹に、この穏やかさこそ、対象に対する絶妙な距離の証なのだから――、私は大いに励まされるのだった。
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