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父親教育

・野崎歓 『赤ちゃん教育』(講談社文庫)

本当は、研究に関係のない本を読んでいる暇などないはずなのだが、気分転換に書店に立ち寄ったところ、文庫になっていた本書を発見。この本のタイトルはもちろん、ハワード・ホークスの映画Bringing up babyから採られているわけだけれど、「赤ちゃん」がさしあたりはペットの豹を指していたのに対して、本書の「赤ちゃん」は文字通り、著者の息子である。

ネルヴァルやサルトルなどからの引用や文学にかんする豊富な知識がどれほど盛られていようと、本書から見えてくるのは、父親としての野崎歓である。いかに客観的に書かれようとしていても、本書は、徹頭徹尾、主観的な作品であり、著者は、見事なまでに、ただの父親である。

しかし、「ただの父親」であるということのもつ、何という可笑しさ、哀しさか。ジャン=フィリップ・トゥーサンと思しき作家(本文では名前が伏されている)が自分の息子について、両親のどちらにも似ておらず、「息子はレオナルド・ディカプリオによく似ているんだ」と述べたのに対して、「人の子の親を支える幻想とは、かくも途方もない代物なのである」と厳しく書き記す著者もまた(p.27)、微笑ましくも、度しがたく、この幻想を抱いている。「[…]うちの幼児が並外れた魅力を放っていることにまちがいはないとはいえ、しかしひょっとしたら自分もまた単なる親馬鹿の一員なのかもしれないという懐疑もきざすのだ(ほんの一瞬ではあるけれども)」と述べているのだから(p.26)。この一節などはやはり、ほんの一瞬「しか」親馬鹿ぶりを自覚しない、と読むのが礼儀だろう。

このように、本書の面白さは、著者自身が父親としての自覚をもつという点にあるだろう。すでに父親になって久しい男性からすれば、何をいまさら、という事柄ばかりが記されているかもしれないし、これから父親になる人にとっては、なるほど、乳幼児とはそういう存在なのかと勉強になる事柄――著者は、男の子には必ず電車に関心をもつ時期があることを指摘して、ラカンの「鏡像段階」をもじって「電車段階」と呼んだりしている――が読まれるものの、「赤ちゃん教育」との題とは裏腹に、野崎がいつも語ってしまうのは、父親たる自分についてなのだ。

「上機嫌にさえずり駆けめぐる身長八十センチ強の幼児が、調子に乗りすぎてぱたんと倒れるや、「うえーん」と口を大きく上下に開き、たちまち大粒の涙をぽろぽろ流して泣き出す。そのさまがまた愛らしくて仕方がない。一瞬ののちには泣きやんでしまうのだが、ああ、こんな泣き顔を存分に眺めることのできた一年前が懐かしいなどと、当時の身悶えも忘れて考えるのだから、阿呆な父親もいたものだ。」(p.39)

あるいは、

「幼児を連れて外に出るときに愉しいのは人に声をかけられることだ。声をかけられなくても、優しく慈しむようなまなざしを向けてもらうだけでたちまち気持ちは晴れやかになる。」(p.115)

ちなみに本書で著者は、事実かどうか、誇張が含まれているかどうかは知らないが、子供の成長に感動するあまり、幾度となく涙をこぼしている。

しかし、父親としての自分を語るとはいえ、子供のことが語られていないわけではない。それどころか、『国家』において、「これらの女たちのすべては、これら男たちすべての共有であり、[…]さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されないこと」を説いたプラトンから(457D、藤沢令夫訳、岩波文庫)、『エセー』で、「子供たちの教育について」という一章を割きながら「お子さんの勉学への意欲と愛情とをそそること、これがなによりも肝心なのです。さもないと、たくさん書物を背負わされたロバができあがるだけです」と記しているモンテーニュ(宮下志朗訳、白水社、p.308)、そして、本書でも引かれているルソーの『エミール』まで、育児や子供の教育にかんする男たちの文章は、教育論という性格ゆえに、おおかた、子供を「いかに育てるか」について論じているのに対して、野崎の本書は、あくまでも、「子供はいかに育つのか」を観察しているのである。本書に見られるのは、赤ちゃんの様子の「観察」と、その「観察」をする「父親」なのだ。

父親という在り方は、野崎のように、驚きと発見の連続となるのだろう。とはいうものの、やはり、母は強し。「少なくとも現代に生きる父親にとって、口惜しいながら認めなければならないのは、子供に対して父親よりも母親のほうがはるかにきめの細かい注意を払い、豊かな記憶を有しているという事実であって、たとえばこうした文章を綴る際にも、母親の査読抜きでは成り立たない」(pp.101-102)。

とはいえ、本書はこんなに真面目くさって読む本でもあるまい。ある章は、もっともらしく「乳房の神話学」と題されながらも、そこに神話学などほとんど見当たらないし、そもそも、各章のタイトルは、文学作品などのタイトルを借用したものか、もじったものなのだから。ともあれ、本書は、「赤ちゃん教育」であるよりも、むしろ「父親教育」なのであり、実際、呵々大笑しながらあっという間に読んでしまった次第である。

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「当事者の特権性の剥奪」?

・古処誠二 『接近』(新潮文庫)、目取真俊 『水滴』(文芸春秋、1997)

先般文庫になった『戦争文学を読む』(川村湊・成田龍一ほか、朝日文庫)に触発されて、この二冊を読んでみた。『戦争文学を読む』は、靖国をはじめとして戦争について喧しい議論が行われた1990年代末の鼎談を集めたものという性格もあってか、過去に書かれた戦争文学にかんして、現在の視点から見えてしまう「欠落」を告発するという姿勢が基調にあるように感ぜられ、私にはいささか息苦しかった。後世から眺めれば過去の事柄はよく見えるようになる、というのが一つの真理だとしても、後世の方が過去に比べて優れているということにはまったくならないだろうし、むしろそのようにして見えてくる過去から現在は問い直される、と私は思っているからだ。なお、本書では、高橋源一郎が徹頭徹尾、文学の話をしているように思われた。

戦争体験者の数が今のところ減り続ける以上(新たな戦争が起こってしまえば体験者は増えてしまうわけだが)、戦争体験者による戦争の語りから、語られた戦争の記憶にかんする語りへと、戦争の語りが必然的に移ってきたことについて、たとえば、上野千鶴子は次のように述べている。「記憶の風化の裏側にあるのは、当事者の特権性が失われてゆくことなんですね。「被害者=われわれ」の構築は、「体験者=われわれ」の構築でもあって、「体験者=われわれ」と「聞き手のあなた方」の境界の定義をする役割をしちゃうんです。ですが、逆説的に当事者の特権性の剥奪は、逆にすべての人を現場に巻き込むことを意味する。あなたの責任を免罪しない、聞き手の責任を免罪しないことと同じであるはずです」(p.51)。けれども、このときの「すべての人」とはいったい誰なのか。「体験者=われわれ」の言葉を読む、非体験者である私は、「体験者=われわれ」の言葉に限りない敬意を払うこともまた、その言葉そのものから求められてはいまいか。「お前はどのような資格・権利でこの言葉を読み、論じるのか」との問いかけを、彼ら体験者の言葉はいやおうなしに含んでいないだろうか。

たとえば、内村剛介は、石原吉郎について厳しい批判を向けつつ、こう記している。「石原に求めること多く、それゆえじじつにおいて「在るべきもの」を彼の「在りよう」におっかぶせてしまったようだが、それというのも「石原」を「内村」とおきかえることがわたしの念ずるところであったからだ。過酷な時代であり、無残なわれらである」(『失語と断念』思潮社、1979、p.10)。石原と内村からなるこの「われら」からは、シベリア抑留を知らない私ははっきりと排除されている。しかしそのことによって、私は、彼らの言葉がどうしても孕む謎に対して、すべてを理解できたとの安易な思い上がりがはじめから禁じられているということを理解する。

彼らの言葉が謎を含むというのは、体験者の言葉が、必ずや、生き残った人々の言葉だからである。生き残った人とは、死んでしまった人の存在を前提とする。彼らの言葉はそれゆえ、語りえぬものではなく、語りつくせぬものを必然的に含みもっているわけで、この点を忘れてしまうことはとても危険なのではないか、と私は思う。要するに、彼らの文章からは、彼ら自身が「お前は黙れ」と言われており、そして読者たる私が今度は彼らから「黙れ」と言われているかのように感じる時があるのだ。

ところで、古処の『接近』も、目取真の『水滴』も、沖縄戦を直接には体験していない人によって書かれた沖縄戦の物語である。とはいえ、この二作はまるで性質が異なっている。『接近』が、米軍のスパイと沖縄の子供との間の、奇妙ではあれ起こっても不思議ではない交流と対決を通して、沖縄戦の一面を直接描こうとしているのに対して、『水滴』は、沖縄戦を生き延びた男の足から滴る水を部隊の兵士たちの亡霊が飲みに来るという、現実には起こりそうもない寓話のような設定のなかで、記憶を通じて間接的に沖縄戦を描いている。

しかし、ともに、過去をどのように引き受けるか、との自問を感じさせる物語である。「あなたはどこからやってきたのですか?」とのっけから放たれる『接近』の問いかけは(p.5)、読者にも向けられているかに思われる。けれども、『接近』が過去を過去として描く一方で、『水滴』は現在になお残る過去を描いており、それゆえにいっそう切実な印象を受ける。

『水滴』の登場人物である徳正が戦後、自らの戦争体験を語ることで金銭を得ることに対して、妻のウシは、「嘘物言いして戦場の哀れ事語てぃ銭儲けしよって、今に罰被るよ」となじっているが(p.30)、この言葉など、極限体験と文学というテーマに取り組みながら(とはいえ、もちろん論文でお金を稼いでいるわけではないが)、幸運なことにこれまで極限体験の当事者となったことはない私には、痛烈な一言に響く。『水滴』は、奇想天外な話であるからこそ、過去に対するつかず離れずの距離感が、当事者ではない私という読者に与えられているように思われるのだった。

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