安易さから薄皮一枚
・ナンシー・ヒューストン 『時のかさなり』(横川晶子訳、新潮社、2008)
このたび来日するというので、恥ずかしながら未読だったヒューストンを読んでみた。
本書は、身体の痣を受け継いでいる、四世代にわたる一族の物語。ナチス・ドイツ、カナダ、イスラエル、ブッシュ政権下のアメリカがそれぞれ舞台になり、ウクライナ人、カナダ人、ドイツ人、ユダヤ人、パレスチナ人、アメリカ人の運命が交錯し、根源には、ナチによるレーベンスボルン計画と終戦直後の米ソ対立とがもたらした悲劇が横たわっていて、さらには、本書はすべて子供の視点から語られている……
と、このように並べてみると、息つく間もなく感動を押し売りする安手のハリウッド映画のようだ。実際、これだけの材料をもって、読ませる物語が作れないわけはないのではないか、とさえ思わされる。しかも、インターネットを駆使する現代のアメリカの子供の描写などに、とってつけたような過激さが感じられてしまい、もし本書の文化的文脈を共有しない読者(たとえばブッシュが誰かを知らない100年後や200年後の人々)が本書を読んだらどう思うだろうかと、そのあざとさに若干、鼻白むこともあった。
このちょっとした居心地の悪さは、ヒューストンの論文を読んだ時にも感じたことがある。彼女は、"Traduttore è traditore"という論文(「翻訳者は裏切り者ではない」となろうか)で、英仏バイリンガルの作家という自身の立場について説明しながら、「私が好きなのは、文学にはどんな限界もないということ。立ち向かうべき唯一の挑戦は、存在しうる真実が無限にあるとあらかじめ認識したうえで、ある新たな真実を作り出すということだ」と、述べていた(Pour une littérature-monde, sous dir. Michel Le Bris et Jean Rouaud, Gallimard, 2007, pp.152-153)。この文言は、アイデンティティがあらかじめ失われている立場ではなく、むしろ、アイデンティティを捨て去ることのできる立場から眺められた世界文学論にも見えてしまい、どうにも楽観的に思われたのだった。
文学は、本当に何を語ってもいいのか。幸運なことに戦争や拷問や虐殺や収容所などを経験していない人が、それら極限体験にかんする資料を用いて「虚構」を、しかも読者の感動を誘うような物語を組み立てることが、はたしてどこまで正当化されうるか。逆に言えば、極限体験の物語についてしばしば起こることなのだが、その物語が奇想天外なものでなく、現実らしければらしいほど、それが虚構であることが許されなくなってしまうということは、はたしてどれほど正当化されうるか。たしかにそうした虚構は、「現実」を垣間見せてくれる一つのきわめて有効な方策だろう。
けれども、たとえば、この一族の年代記の傍らに、おのれの出自を探究したレポートでありながら、本書と同じようにナチス・ドイツによる悲劇まで遡る一族の物語になっているダニエル・メンデルゾーンのThe Lost(Les disparus, trad. de l'anglais (Etas-Unis) par Pierre Guglielmina, Flammarion, 2007)を並べてみると(私はまだ途中までしか読んでいないが)、少しは何らかの答えに近づけるだろうか。あるいは、いつも第二次大戦に舞い戻ってしまうW.G.ゼーバルトの虚実皮膜の物語を置いてみると、どうだろう。
以前、大岡昇平を読んだ時には、体験者という立場からではなく体験を語ることの可能性を考えようと思い、また、『戦争文学を読む』(朝日文庫)を読んだ際には、体験者の特権性の剥奪という事態をそのまま肯定していいものかどうか、疑問に思ったのだった。こうした問いは、最近の私の関心事なのだが、答えは用意できていない。さしあたって思うのは、事実を書くということがすでにもう一つの事実であり、出来事も、それを書いた文章も、どちらも事実でありながら、文章は出来事に比べていつも少しだけ足りないのかもしれない、ということではある。自伝は、やはり人生そのものではないし、書かれたものとして人生とは別の存在をもち始める。とはいえ、こうした考えと、「虚構」を正当化する姿勢、そして、これと表裏一体の構えである、文学作品を歴史的事実から解釈しようとする読解を正当化する姿勢、さらに、物語に真実を求めようとする姿勢が、どのように繋がっているのか、あるいは繋がっていないのか、まだ私にははっきりしていないのだけれど。
ともあれ、ヒューストンのこの物語がぎりぎりのところで、安っぽいメロドラマを免れているかに見えるのは、語り手を子供として設定したことで、逆に、語り手にとって分からないことが分からないままに残されるからである。曾祖母AGMとその「姉」グレタとの喧嘩をのぞき見てしまう6歳の語り手ソルは、次のように語る。
「寝室のドアが半開きだ。いったいどうしたのかと思って中をのぞいてみると、そこには信じがたい光景が繰り広げられていた。二人の老婆がひとつの人形を奪い合っている! AGMは人形を抱きしめて――赤いビロードの服を着た、ごくふつうの人形だ――怒りで顔を引きつらせている。
[…]
グレタはまたドイツ語で何かを言った。それから疲れ果てた様子でベッドのところまで行くと、そのままぱったりと横になった。重さでベッドのスプリングがきしむ。彼女はふうっとため息をつくと、それっきり動かなくなった。
AGMは人形を抱いたまま、ベッドに横たわるグレタの足元のあたりまで進むと、その場にいつまでも立ちつくし、姉の姿を見ていた。背中をこっちに向けているせいで、AGMがどんな表情をしているのか、残念なことにぼくからは見えなかった」(p.99-100)
このときのAGMの表情がおそらくは、本書の要となるであろうに、曾祖母の過去を知らぬ語り手ソルには、ことの重大さは理解されず、この時点での読者もまた、この表情の意味を知らないまま読み進めることになる。それに、この物語の出発点となる局面について、まだ子供のAGMは、「いったい何がどうなっているのか、さっぱりわからない」と思うのだった(p.371)。
この点で本書は、説明過剰という安易さから隔たっているように思われる。肝心なところで、語り手であり主人公でもある子供たちは、何も分からぬままに運命に翻弄されるかのようなのだ。
それにしても、このブログを始めてから、私の考えも少しずつ変わってきたのが自覚される。それがまた楽しいことなのだが、それだけに、もう少し更新頻度を上げたいものである。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

![: ふらんす 2009年 10月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51hvsjMvMtL._SL75_.jpg)






















最近のコメント