否応なしの歴史
・エステルハージ・ペーテル 『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』(早稲田みか訳、松籟社、2008)
まったく恥ずかしい話、私は、ハンガリー文学といえばケルテース・イムレしか知らなかったが、昨秋に翻訳のなったエステルハージ・ペーテルの本書を繙いてみた。というのも、作家が来日して、以下のシンポジウムが催されると友人から聞いたからだ。
「ドナウを下って、未来の世界文学へ」
2月11日(水) 15時30分~ (通訳付き)
東京大学 本郷キャンパス 法文2号館2階 1番大教室
エステルハージ・ペーテル、沼野充義、早稲田みか、エッシュバッハ=サボー・ヴィクトリアの各氏
詳細は、http://www.jpf.go.jp/j/intel/new/0901/01-03.htmlをご覧ください。
これまた恥ずかしながら、エステルハージと聞いて、私はハイドンの名前しか浮かばなかったが、訳者あとがきによると、実際にペーテルは、ハイドンが仕えたエステルハージ家の末裔とのこと。
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(2009.2.12追記)
上記シンポジウムの行き帰りに、どんどん脱線していく奔流を遊ぶ、この「ドナウ川の旅」本書を読み終えた。筋がまるで直線的には進まず、話が次々に飛躍していく「ポストモダン小説」ではあるが、楽しい訳文に、飽きることがなかった。
筋らしい筋がないとはいえ、中心となるのは、主人公であるプロの旅人(人に雇われて旅をし、報告書を雇い主に送る)が、幼少時代に「どことなく秘密めいていてかっこいい遠縁のおじ」(7ページ)であるロベルトと一緒に下ったドナウ川を辿り直しながら、おじの隠された過去を知っていく、という物語。
言ってみれば、本書は、ドナウを言葉にする試みなのかもしれない。たしかに、「旅は旅。言葉と同じで、それ以上でもそれ以下でもない。出かけて、帰る。その間に時間が経過する」(49ページ)と記されているし、あるいは、主人公は、物語の核心を知る女性ダルマにこう言われている。「「貴方には言葉が役に立つ。私の理解が正しければ、お坊ちゃまはドナウ川を言葉にしたいんでしょう?」大声で笑うなり、すぐに口をつぐんだ。あの噴水のように。少女みたいにもの問いたげに僕を見た。「でなければ逆に、言葉でもってドナウ川を紡ぎたいのかしら?」」(159ページ)。そして実際、主人公は一瞬、ある種の強迫観念に捉えられる。
「要するに、完璧症にかかってしまったのだった。[…]何かを見逃しているのではないか、ドナウ川の重要な数センチを見落としたのではないか、そんな不安にたえずかられて、それがいかにばかばかしいことか承知はしていても、気が休まるということがなかった。[…]私はますますもって書くこと(大仰に言えば、作家としての存在)と旅とを同一視するようになって(旅について書くことにはいよいよ関心を失い、関心をひかれる対象もなくなって)、結局のところ自分は旅人にあらずと自己批判せざるをえなくなっていた。欺瞞に満ちた存在の最たるものがドナウ川だった。これぞまさしく悪しきお手本だった。何しろそいつは、変わることなく前に向かって流れ続けているのだ。」(220ページ)
とすれば、本書の主人公は、言うなればドナウ川そのものなのだろう。とはいえ、本書は言語遊戯にはまったく留まらず、中欧を流れるドナウ川を舞台としているだけに、どうしても近現代の劇的な歴史が随所に顔をのぞかせる。もちろん、どこを舞台にしようが、その土地が背負っている歴史はあるのだろうが、ドナウ川の場合、ドイツ、オーストリアといった西側から、ハンガリー、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、セルビア、ブルガリア、モルドヴァなどの旧東側を流れていくため、第二次大戦以降のその歴史は、やはり激動のものであろう。
「この日、故国ハンガリーでは重大な出来事が出来していた。社会主義のシュールで巨大な石鹸の泡がパーンとはじけて、爾来、われわれの顔は汚れた石鹸水でびちょびちょだ。[…]
三十分のニュースの間に、ハンガリー国歌が六回も流れた。最初は、哀れな祖国が揶揄さればかにされているのかと思った。しかし、ビベラッハの灰色の雨が蕭々と降り続き、隣部屋からは時おり、アンニ(?)が片付けやら掃除やらをしているとおぼしき物音が聞こえてくるなか、私は長い時間をかけて熟考した結果、六回の国歌は客観的な事実報道にほかならぬという結論に達した。なにしろわれらが国では、最重要の問題、国家やわれわれの存在に関わる問題の内部にさえ、個人的なこと、さらには感情的なことまでが平然と侵入してくるからだ」(72‐73ページ)
それゆえ、本書の語りは、まるで無垢なものではなく、痛烈な皮肉と自嘲的な笑いに満ちた饒舌なのだと思われる。実際、2月11日の講演において、エステルハージは、21世紀の言語として、平和の言語、限界を知る言語、外交の言語を求めていたが、それは、世界への一つの向き合い方にほかなるまい。本書は、軽やかな言語遊戯のなかにも、否応なしに(大文字の)歴史が入り込むのだが、しかし、歴史に呑み込まれてしまうことのない本書によって引き起こされる笑いは、とても乾いている。
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