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文学は告発を超えて

・岡真理 『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房、2008)

アラブ世界、とりわけパレスチナの現代文学を、政治的、社会的、歴史的、そしてジェンダー的文脈から紹介しながら論じている書。恥ずかしながら、ガッサン・カナファーニーやマフムード・ダルウィーシュくらいしか知らず、本書で扱われている作家のほとんどを読んだことがなかった私にとって、この書はたいへん勉強になり、刺激を受けた。

「かつてサルトルは、アフリカで子どもが飢えて死んでいる時、『嘔吐』は無力であると語った。では、パレスチナでパレスチナ人が非常事態を日常として生きている時、小説を書き、小説を読み、小説について語ることに、いったいいかなる意味があるのだろうか――」(2ページ)との痛切な問いかけから始まる本書は、小説をはじめとする文学は、都合の悪い人々や出来事を意識的にせよ無意識的にせよ排除しながら国民なる共同体を創出し続ける、国民の語りというものから外れた地点で、祈りとして共有されるものだ、と訴える。サルトルは、実のところ、飢えを前にした人々にとって文化的産物である文学は無意味であるとあらかじめ断定してしまっているが、実際は逆に、非常事態を日常としている人々こそ文学を必要としているのではあるまいか、というのである。読み物としての文学だけではなく、読まれたり聞かれたりする物語も含めて「文学」ということであれば、その通りなのだろう、と私は思う。

そして、本書で私がとても腑に落ちたのは、なぜあれほどの虐殺を経たはずのユダヤ人たちが、今度はパレスチナにおいて暴力に手を染めるのか、との問いにかんする以下のような考察である。

「世界が関心を示すのは数であって、他者の命に対してはどこまでも無関心であるのなら、[ユダヤ人に対するジェノサイドの被害者数である]600万という巨大な数字が、その巨大さゆえに強調され特権化され、彼らの死者は、ほかの死者たちの死から区別されるだろう。[…]/死者の統計数値から炙り出される彼らのシニシズムは、彼らの振る舞いが、ホロコーストを経験したユダヤ人「にもかかわらず」ではなく、むしろホロコーストを経験したユダヤ人「だからこそ」なのだということを物語っているように思えてならない。」(31ページ)

大量殺戮は、被害者数の多寡のみが世論の注目を集めるか否かの基準となり、世界は人間の命の尊さという理念には無関心であるということを示してしまったゆえに、甚大な数の被害者を生みだした虐殺の生き残りたちはその数に居直ってしまう、というのである。

けれども、このように、とても示唆を受ける本書ではあるが、実のところ私は、若干、居心地の悪さも感じてしまった。それは、本書において文学が「告発」のメッセージとしてしか扱われていないのではないか、との惧れが私に生じたからである。たとえば、ユースフ・イドリースの『アル=ハラーム』(「禁忌」の意)という作品については、「作品の標題の「ハラーム」には定冠詞「アル」がついている。とすれば、それは、社会にさまざま存在する宗教的禁忌のどれかのことではなく、人間にとっての真の禁忌、絶対的な禁忌を意味していよう。では、この小説が告発する真の禁忌とは何か」と記されている(134ページ)。あるいは、「だが、他者に対して世界を表象する術のない者たちは、自らが生きる生それ自体が抵抗にほかならないと言説化することはできない。だとすれば特権的なエクリチュールをもち世界を表象しうる作家とは、単に自己が生きる苦難を表象するだけでなく、「抵抗」として自ら名指すことなく抵抗を生きているこれらの者たち――サバルタン――のその生を「抵抗」として分節し、表象する責務を負った存在であると言える」と述べられる(216ページ)。表象されざるサバルタンを描く可能性と不可能性については、作家たちは「自らの無知を作品に書き込んでいるのだ」と指摘されるものの(229ページ)、岡は、文学を現状に対する告発として位置づけようとし、文学を、不可欠なものとしてであれ、無力なものとしてであれ、何かのための道具や手段として捉える点で、サルトルと同じ土俵に乗っているようにも見えてしまう。

告発を含むことで成立する文学もあるだろうし、告発の要素を多分に含み込まざるをえない作品もあるだろうが、文学はやはり、道具に留まるものではないだろう。

本書では、種々の作品の比較を通して、各々の視点がきめ細かく汲み取られるかに見えながら、たとえば、「アウシュヴィッツから奇跡的に生還したプリーモ・レーヴィは、絶滅収容所でもっとも恐ろしかったこと[について述べている]」と記されてしまう(13ページ)。レーヴィは、強制絶滅収容所だったアウシュヴィッツにいたとはいえ、そのなかでも屋内で作業ができるなど、生存のための条件がまだましだったモノヴィッツにいたのであり、トレブリンカなどの純然たる絶滅収容所にいたわけではない(絶滅収容所では移送されてきた人々は労働に役立つか否かの選別を経ずに次々と殺されていった。もちろん、だからといってレーヴィの体験が軽視されるはずもない)。そして、生き残ってしまったことに罪悪感を抱いたのがレーヴィだった。

書き記すことに対する内省と、出来事に対する個々の視点とを否応なしにもつのが文学作品なのだと私は思う。つまり、歴史や政治といった大枠のなかの個々の視点に迫る、あるいは、個々の視点を通して世界の一面を見せるのが文学ではなかろうか。それゆえに、作品は、必ずや読者の理解できない点をもっており、だからこそ、自分や自分の周囲の人々のかけがえのなさ(体験であろうと想いや考えであろうと)を、そもそも自身がどれだけ理解しているかという疑念を含みつつ、読者に理解させられると同時に、すっかり理解されてしまうことをいつも拒んでいるように思うのである。要するに、理解されたい欲求と、理解されてしまう平板化への惧れとを同時にもつのが文学作品ではないか。たとえるなら、自分の感情や経験を身近な人に話して、「うん、分かるよ」と言ってもらうとき、分かってもらえたという喜びと、そんなに簡単に分かられてたまるかという反抗心とが、(少なくとも私には)しばしば同時に沸き起こるが、ちょうどこの間にあるのが、文学のややこしさであり、面白さなのだと私は考えている。

というのも、言葉がそもそもそういうものだからだ。言葉一般のもつ、誰のものでもありながら、自分だけのものでもあるという性格を、誰もが知っているという点で何よりも皆のものであるはずの常套句を例にとって示したのは、「文学における恐怖政治」を論じたジャン・ポーランだった。ポーランは、フランスのロマン主義から見られる、自分の思想を手垢にまみれた言語で表現することへの拒絶を「文学における恐怖政治」と呼ぶが、実はそこで忌避される常套句こそ、いかようにも思想を伝達することのできる表現であり、「絶えず考えられ再検討され洗われる必要のあるものなのだ」と述べていた(野村英夫訳、書肆心水、2004、275ページ)。

この意味で、岡が、当事者でない人々によって虐殺という極限体験の悲劇が舞台で演じられることについて、「彼らが舞台上で、その悲劇の出来事を演じることができるのは、まさに、彼らが当事者ではないからだ。だが、そこにこそ、可能性があるのではないか」と指摘しているのは(294ページ)、とても興味深い。舞台とは、まさに上演(representation)の空間であり、表象(representation)の場である。これに対して、出来事や人々の謎を内包することで、そのrepresentation(表象・再現・代理・代表制)になる一歩手前ぎりぎりのところに踏みとどまるのが、ほかならぬ文学の資格であり豊かさなのではないかと、私は思っている。

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