本を救う人の物語
・ボフミル・フラバル 『あまりにも騒がしい孤独』(石川達夫訳、松籟社、2008)
本書は、チェコの作家フラバルの代表作だという。恥ずかしながら、チェコの現代作家といえば、ミラン・クンデラくらいしか思いつかず(もっとも、クンデラはチェコ出身のフランス語作家というべきか)、むかし何冊か読んでみたものの、『冗談』のほかは(それほど読んだわけではないが)さほどしっくりこなかった記憶がある。そんななか、フラバルという作家を私は本書で初めて知った。
本書は、地下室での故紙処理に35年間従事してきた孤独な男の悲喜劇が、飛躍に次ぐ飛躍を行なう夢うつつの一人称で語られている物語。主人公であるハニチャは、潰すべき種々の故紙に紛れ込んだいろいろな本を勝手に救い上げ、そのことに誇りを抱き、生きがいを感じている。
「しかも、世界でただ一人僕だけが、それぞれの紙塊の心臓部に、こっちにはページを開いた『ファウスト』、あっちには『ドン・カルロス』が入っていること、こっちには『ヒュペーリオン』が血にまみれた気味の悪い蓋紙に包まれていること、あっちにはセメント袋の紙塊の中に『ツァラトゥストラはかく語りき』が眠っていることを知っている。世界でただ一人僕だけが、どの紙塊の中に小さな墓の中のようにゲーテとシラーが横たわっているか、どこにヘルダーリン、どこにニーチェが横たわっているかを知っている。僕だけが、自分で自分にとって、ある意味で芸術家であると同時に観客でもある。」(13ページ)
このような、自分だけの世界を作ることの幸福感はとてもよく分かる。自分一人で行なう読書とは、「心ならず教養」(48ページほか随所で繰り返される表現)に飛び込んでいって自分の世界を創り上げる幸福である。だから、自分のひそかに偏愛する作家について、他の人が思いもかけず語っているのを聞くと、とても嬉しい反面、何だか自分の大切な世界にずかずかと入って来られたかのような疎外感を味わったりすることもある。それでいながら、私などは、自分の世界を他の人に知ってもらいたいとも思うのだから、都合のいい話ではある。とはいえ、開き直りではないが、研究というのは、そもそもそういう類のものだとも思われる。
ところで、ハニチャは、言ってみれば、本を墓場の手前から釣り出しているわけで、本を潰すことになるとき、彼は、まるで生き物を潰すように感じているかに見える。
「そして僕は赤いボタンで、血に濡れたプレスの壁を後退させて、圧縮室の空いた空間に、血痕のついた箱や、血や肉の臭いが滲み込んだ包み紙を、両手で次々と投げ込んだ。僕はもう少し力を振り絞って、フリードリッヒ・ニーチェの本をめくり、リヒャルト・ワーグナーと星の友情を結んだことについて書いてあるページを見つけ、子供を湯船に入れるように、その本を圧縮室に沈めた。それから、嵐の中のしだれ柳の枝みたいに、僕の顔を叩いている青と緑の蝿の群れを、両手で素早く顔から追い払った。」(50‐51ページ)
ところがあるとき、より効率的な処理システムが登場し、ハニチャの仕事は「社会主義労働班」の若者たちに取って代わられ、彼は、まっさらな紙を固める仕事に配置転換されてしまう。「汚らしい紙の中から、今この瞬間にも美しい本をご褒美として釣り上げるという驚異なしには、生きてこられなかった」ハニチャは(109ページ)、何も記されていないまっさらで「非人間的な紙を潰す」という新たな仕事を前にして、恐怖と落胆に襲われ、自らを「圧縮」しようとするのだった……
ここに、本書が執筆された1976年当時の社会主義政権下のチェコの状況を見ることもできるのだろうし、「心ならずの教養」をもたらす書籍が危険視される物語として本書を読むことは、とても自然な読み方なのだろう。しかし私は、何よりも、故紙から本が拾い上げられるという点に注意が向ってしまった。
というのも、言論の自由がおおよそ保障されたかのような時空間に生きている私もまた、新聞を廃品回収に出すことや、書類をシュレッダーにかけることには何の抵抗も感じないのに、本となると、その内容がどうであれ、捨てるなんてとんでもない、と思ってしまうからだ。けれども、よくよく考えてみれば不思議なことだ。文字が印刷されている点では、新聞やチラシと書物の間には何の違いもないのに。
新聞と書物の違いについては、誰はさておき、ステファヌ・マラルメが思い浮かぶ。今や紋切り型になったと言えるかもしれないが、「書物はといえば」のなかで、「この世界において、すべては、一巻の書物に帰着するために存在している」と記しているマラルメは、「書物」と「新聞」を次のように区別していた。
「書物の、折り畳まれた儘の処女なるページは、なおも、昔の書巻の日に焼けた縁がそれによって血を流した犠祭を覚悟している。と、兇器、すなわちペーパー・ナイフが挿し入れられる、取得を確かなものとするために。この野蛮な真似を抜きにしても、良心は、後になって、なんと利己的になることか。そのとき良心は、書物に関与して、書物をそこここから勝手にとり上げ、これをさまざまに変奏し、まるで謎かけのようにこれを解き、――要するにほとんど自分の手でつくり直してしまう。[…]新聞の及ぼす影響には腹立たしいものがある。それは、例の神々しい古書において文学によって要求された複雑な組織体に対して、千篇一律の単調さを――あの耐え難い記事欄というものを常に押しつけるのだ。そこでは、記事欄をページの寸法の中に、それこそ何百回となく、割り当てることだけが行なわれている。」(松室三郎訳、『マラルメ全集II』筑摩書房、1989年、268ページ)
紙が幾重にも織り成した襞の間で、折り畳まれた神秘を宿し続け、ペーパーナイフによって襞を開かれ、ひとつの宇宙を形成することになる、書物のための言葉。それに対して、新聞の言語は貨幣のように人々の間を流通することを本義とする、という。これを字義通りに眺めるならば、新聞を潰すことはもともと再利用されることを前提として作られたものを潰すことであるのに対して、書物を潰すことは、一個の世界を潰すということにでもなるだろうか。
ともあれ、フラバルの物語では、故紙の中から本を救ってきた主人公は、最後には、本と直接的には関係のないとても奇妙な形で救われるかに見える。それだけに、本書からは、とても幸福な読書体験を得られたのだった。
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