驚くことの驚き
・吉岡洋、岡田暁生編『文学・芸術は何のためにあるのか?』(東進堂、2009)
本書は、これまで5年度にわたって行なわれてきた人社プロジェクトの成果。私がお世話になってきた研究プロジェクトLACの成果の一部でもある。本書は、そのタイトルとは裏腹に「文学・芸術は何のためにあるのか?」という問いには答えを出していない。「まえがき」で、編者の一人である吉岡は次のように記している。
「文学・芸術は何のためにあるのか? それは、お金では解決できず、技術革新によっては克服できず、「抗うつ剤」を飲んでも直らない[ママ]、人間にとって根本的な問題を引き受けるためにある。その問題とは、最終的には、「この生に(あるいはこの世界に)意味はあるのか?」という<問い>の形で表現できるだろう。[…]
文学や芸術は、この<問い>を引き受ける。だが、「引き受ける」のであって「答える」のではない」(iページ)
昨今は、何かにつけ、「目に見える形での効果」が求められるように感ぜられる。けれども、「それは何の役に立つのか」という一見有無を言わせぬ問いを立てる際には、そこにいくつかの盲点があるということを忘れてはならないと思う。
それはまず、効率性を求めるかのようなこの問いそのものが、実のところ、きわめて非効率的な答えを前提しているのではないか、という点である。というのも、あらゆるものは、あらゆることのために存在しているからだ。私など、「それは何のためにあるのか」と訊かれたら、だいたいの場合、「そんなもの、文脈や状況次第である」と答えたくなる。たとえば、金槌はなるほど、釘を打つためにあるわけだけれど、瓶の固いふたを開けるのに用いたり、重りになったり、緊急時にガラスを割ったり武器になったりすることもなく、もっぱら釘を打つことしかできない金槌など、そんな非効率的なもの、いったい「何の役に立つ」のだろう。
それに、「それは何の役に立つのか」という問いには、どうしても歴史的ないし長期的視点が欠けてしまう様に思われる。昔は役に立っていた、あるいは、いつか役に立つかもしれないといった答えを、この問いは許さないからだ。
ここでふと、ジャン・ポーランの引いているこんな話が思い出される(以下は私の戯訳)。
「警察は、エドゥアール・ジャリの殺害犯を捜索して半年、何の手がかりも得られなかったが、ひょんなことから犯人の足がついた。ある日、通りを歩いていた一人の男が、突然走り始め、一軒の家に飛び込み、管理人を突き飛ばして階段を駆け上がり、屋上に逃げて行った。誰もが呆気にとられてしまったが、警報装置が鳴らされた。警察が現場に到着、その男は6時間後に女中部屋にて発見された。彼は、自分が殺人犯であり司直に追われていることをすらすらと告白した。――ではなぜ、その日、彼は走り出したのか。それは、彼が、自分の方に一人の警官が走り寄ってくるのを見たからである。そこで調べてみると、彼に走り寄ったというその警官は、良きパパであり、家に急いで帰るためバスに乗り遅れまいと走っていただけだと判明した。」(Jean Paulhan, Entretien sur des faits divers, Gallimard, 1945, p.28-29)
しごく当たり前のことなのだが、警官が警官であるときもあれば、パパであるときもあり、さらには息子であるときもあるのと同様に、一つの事柄が一面的な役割しかもたないなどということはありえまい。以前にも思ったことだが、何かの価値を判断するのに、基準が一つしかないのは、とても貧しいことだ(現代ではそれはさしずめ金銭ということになろうが、このことは別に、金銭が無用ということを意味しない)。
そういうわけで、本書のタイトルはとても挑発的に響く。本書の末尾に収められた鼎談の冒頭で、吉岡は次のように説明している。
「「文学・芸術は何のためにあるのか?」これは一見ストレートな問いに見えるけれど、実はきわめてトリッキーな問いであると思います。かつては、こんなことは問うまでもなく、文学や芸術の存在意義は自明だったようにも思える。この問いがアナクロニズムに思えるというのは、現在の文化状況のなかで、もしこうした問いを発したとすると、それは深遠な哲学的議論を期待するものではなくて、なんというか、そうした活動にお金を使う理由、つまり文学・芸術の「費用対効果」を訊いているように響くからです。いわば、この「問い」自体の意味が掘り崩されてしまったような世界にわれわれは生きているということです。だから、そうした二重の意味をこめて、あえてこういうタイトルをつけてみたのです。」(204ページ)
この鼎談はすこぶる面白く、刺激的である。何せ、吉岡自身、「文学、芸術にかかわっている人たちが、そういう問いに対して「はいはい、こんなふうに役立っていますよ」とか、軽々しく言っちゃだめだと思います」と断言しているのだから(231ページ)。
私が思わず噴き出しながらも納得したのは、鼎談のなかの以下のようなやり取り。
吉岡 「この世界にはあなたは一人しかいない」みたいなことを、子どものころから親にも言われ、学校でも言われ、社会に出ても言われ続け、ポップスでも歌われた日にゃ、そりゃ「透明な存在」になるよ。誰だって。[…]
三輪(眞弘) そりゃそうですね。
吉岡 花屋の店先に並ぶ花はみんな同じようにきれいなんだと言うけれど、そもそも花屋の店先に並んでしまったこと自体、決定的に間違ってるんだよ。(214ページ)
「何のためにあるのか」という質問の土台をずらすこと。それは少なくとも、価値基準など一つではありえない、そうあってはならない、ということを示す振る舞いである。そうした振る舞いがもたらすのは、何よりも、「驚き」である。しかし、そうして驚くことが抑圧されつつあるのではないか、と吉岡は危惧している。
「無知であったり、勘違いしたり、空気が読めなかったり、そういうことが許されないのは、つらいことだと思う。どこか愚鈍なところがないと、文学・芸術はだめだと思うんです。「そんなことももちろん知ってるけど」という所から話を始めてはいけない。」(221ページ)
思わず嘆息してしまう箇所である。以前にも読んだが、蓮実重彦が、はびこる「凡庸さ」を打ち破る「愚鈍さ」を主張したのは、もう20年以上も前のことだ。実はそれからというもの、「愚鈍さ」ではなく、賢さという「凡庸さ」が幅を利かせてきたかにも思われる。でも、自分の無知を悟る羞恥心に裏打ちされた驚きは、したり顔の頷きなどよりも、はるかに意想外の豊かな可能性を示すものなのだろう。
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