ルポルタージュと文学研究
・麻生晴一郎 『反日、暴動、バブル――新聞・テレビが報じない中国』(光文社新書)
本書は、1980年代後半から、中国に長期滞在したり、頻繁に中国を訪れている著者による最新作。中国に最初に長期滞在することになった時の様子は、以前読んだ『こころ熱く武骨でうざったい中国』(情報センター出版局)に記されている。
本書では、まだ記憶に新しい2004年頃の中国における反日デモから、政府を「假的(嘘)」と捉えてそこから逃れようとする近年の民間の台頭、あるいは、地方において今日こそ人々に求められつつある、政府とは異なった公共意識としての社会主義や、さらには、強い愛国心に基づきながらも政府とは対立する民間の動きまで、現代中国社会のさまざまな側面が描かれ、分析されている。とはいうものの、本書は、中国という国の大枠に沿って観察されたものではない。
というのも、本書はある種の危機意識に基づいて書かれているようなのだ。冒頭で著者は次のように記している。
「はたして中国は「中国」のままなのだろうか? そうではなく、新しい文化や人の台頭は「中国」そのものを変えつつあるのではないのか?[…]一連の抵抗運動の主体である市民たちの声に耳を傾け、彼らの問題意識に重ね合わせるような内的な理解をしていかなくては、日中の往来や情報が飛躍的に増大してもいっこうに壁は消えず、さらには今後またいつ起こるかわからない「反日」で、あのうろたえぶりが繰り返されるに違いない。」(8ページ)
それゆえ、ここで描かれるのは皆、中国の普通の人々である。著者は何度も中国を訪れては人々の中に入っていき、場合によっては、時を隔てて何度も会いに行く。だが、「普通の人」とは誰か? 本書に出てくるのは、弁護士やロック歌手の若者、フェミニスト活動家や作家など、実にさまざまだ。とはいえ、職業や立場、年齢や思想は異なれど、登場人物に共通しているのは、「中国共産党が代表できないような人々」だという点である(40ページ)。
そうしたしぶとい取材から見えてくるのは、たとえば、「直接の戦争被害者の声は、当時も新中国になってからも、そして現代の「反日」の際も、全くと言っていいほど届かない」という事態である(90ページ)。
本書はこうして、整理しやすい大局でもなく、かつまったくの個人的な事柄でもない、そうしたところにある「現実」をなんとか汲み取って、それを説明しようとする姿勢を貫いている。もちろんそれは細部を拾い集める作業であり、中国に対して俯瞰的な視点をもたらしてくれるものではない。けれども、そこに浮かび上がってくるのは、彼らの存在や活動が、「一部分には違いないが、一部分にすぎないのではなくて、一部分でありうるということなのではないか」、と著者は言う(187ページ)。まさに、「一部分だとしても存在し、知られることを欲しているのであれば、それを記す意義は存在するはずだ」という点に(169ページ)、本書の倫理とでもいうものが(そんな大げさなものではないかもしれないが)、存しているように思われる。
そして、この視点に立った時、翻ってみると、中国共産党という存在が別の相貌を見せ始め、中国という国の別の理解の仕方が明らかになってくる。
「政府である党は国家秩序そのものではなく、国家の中にさまざまな民間が行動主体として存在する中で、最も勢力の大きい最大の行動主体であるととらえることができよう。[…]実際には、一方ではきわめて自由主義的な、他方ではきわめて愛国主義的な、またそれらとは別に政治に無関心な、さまざまな民間が台頭し、とは言えそれらは中国という大国でみればどれ一つとして多数派ではなく、とは言え固まれば少数派でもなく、そうしたたくさんの行動主体の中の最大多数の存在として党があり、その党がさまざまな民間の台頭の中で、いかに自らの位置を守るか模索しているととらえるべきではないのだろうか。」(228‐229ページ)
政治学的な分析から見て、こうした分析が妥当なのかどうかは私にはとても分からないが、それでも、この分析に「実感」というものが重くのし掛っているということはよく感じられるし、また、理解できるがゆえに説得力がある。そしてこの、実感といったものは、やはり軽視できないのではないかと思うのだ。
本書のような足取りは、取材というものには縁遠く、もっぱら印刷物を相手にする文学研究、しかも対象は中国文学ではまったくないものを研究している私にとって、図らずも、とても勇気づけられるものだった。たとえば、この4月から『ふらんす』という雑誌に連載させていただいているテーマ、「対独協力作家」について考えるときにはとりわけ、個という視点から大局を眺めるという姿勢が欠かせないように思われるのだ。
対独協力作家のリュシアン・ルバテは、同じく対独協力の廉で裁かれる「アクシオン・フランセーズ」一派に対して、戦争中に罵詈雑言を浴びせるが、これなど、「対独協力作家」がけっして一枚岩ではなく、相互に激しく憎悪していた場合さえあることを示している。あるいは、1943年の段階で、そのナチ礼賛ぶりに、ドイツ軍の検閲官であるゲルハルト・ヘラー(彼はフランスびいきではあった)から刊行を控えるよう助言される原稿を書いたジャック・シャルドンヌは、政治的に自分から程遠い作家レイモン・ゲランを、自らのコネクションを用いて捕虜収容所から釈放させている。そして、自由の身になったゲランは彼に対して、「あなたにお礼を申し上げたい。しかしドイツ人に対するあなたの態度は忘れるわけにはいかない」と述べたという(Ginette Guitard-Auviste, Jacques Chardonne, Albin Michel, 2000, p.224)。いつの時代の現実も、後世から見れば複雑怪奇なものかもしれないが、それにしても、現実というものはとても複雑怪奇である。
いや、複雑なのは現実だけではあるまい。1930年代から40年代にかけて「火の十字団(Crois de feu)」を率いたラ・ロック中佐が、中道左派政党へと自分の集団を発展させたにもかかわらず、なぜ現在はフランス・ファシズムの権化として扱われているのか、という謎に迫った『記憶の中のファシズム』(剣持久木、講談社、2008)などを読むと、「記憶」もまた一筋縄ではいかないことが分かる。そういうとき、私には、麻生の中国への向き合い方がとても参考になるのだった。
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コメント
実感を中心に据えた解説を興味深く拝読いたしました。
実感はともすれば客観に較べて曖昧だと思われがちですが、世間に広まる客観よりも実感がかえってリアルであるような状況があるのだと思いました。
対独協力作家のくだりの一筋縄ではいかない現実のどろどろしさのようなものもそうかもしれません。ぼくは日ごろ文学作品で時代や地域を理解することをあまりやっているわけではありませんが、どろどろしさを抱えた文学作品にはそんな力があるのかもしれない、などと本文から逸脱したことに思いをはせたりもしました。
ふらんす、拝読してみます。
投稿: gikyoudai | 2009.09.28 10:49
>gikyoudaiさま
ご無沙汰しています。お元気ですか。
コメントをどうもありがとうございました。
「実感はともすれば客観に較べて曖昧だと思われがちですが、世間に広まる客観よりも実感がかえってリアルであるような状況があるのだと思いました。」
とのこと。私の言いたいことを見事に掬ってくださってありがとうございます。俯瞰する立場というのは、とてもすっきりしているのですが、そればかり考えてしまうと、何事も分かったような気になってしまうのが、怖いなぁといつも思います。
「ふらんす」の拙文をお読みいただけるとのこと。痛み入ります。お時間のある折にでもご感想などお聞かせ願えれば、とても嬉しく思います。今後ともよろしくお願いします。
投稿: 安原伸一朗 | 2009.09.29 14:25