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2009年のメモ1

何を読んだのか、日々の生活の中で忘れないためにも、2009年に読んだ本の中から、気になった文章の抜き書きだけでもしておきたい。

・田中純『政治の美学』(東京大学出版会、2008)
 「審美主義は芸術を高めるためにこそ、生から芸術を隔離しようとする。「芸術の指導権」はそれによってはじめて確立されるのだが、そこに生じる疎外の不安ゆえに、審美主義は政治という「汚れた秩序」の革新に向けた接近へと一挙に反転してしまうのである。」(95ページ)
 「「模倣を通じて模倣しえぬものになること」という二重拘束的な命令は、他者から隔絶した「孤立した人間」の身体を獲得するために逆に、アポロン像を目にしたヴィンケルマンのように、みずからの起源を目撃するこのまなざしにおいて、他者へと没入することこそを要求する。主体は主体であるために、まず他者へと疎外されなければならない。」(168ページ)
 「[カール・シュミットの]「表象」概念自体が実は、有機的全体性としての身体をモデルとする以前に、文字通り「表象しえないもの」の「肉」をめぐるキリスト教神学のフェティシズムを淵源にしていた[…]。国家の政体を「表象」として、「イメージ」として可視化することは、フランス革命にともなう近代民主主義の到来を待つまでもなく、「身体」の全体性と「肉」の多型性ないし無型性との葛藤を孕んでいたのだ。」(196-197ページ)
 「「死へ向かう存在」である戦士たちが未開社会に決定的な分化の亀裂を刻み込むとき、社会構造は一挙に反転し、戦士集団とへ別の場所に主権を生成させる。それと同時に、戦士たち自身はそのあらたな国家秩序の外部、死者たちの共同体により近い領域へと弾きだされてしまう。」(338ページ)
 「芸術家に主権を授けるのは亡霊となった死者たちなのである。」(475ページ)

・三島由紀夫『小説家の休暇』(新潮文庫)
 「性的動機だけではその幻想をみたしえないサディストは、対象の苦痛の原因を、愛慾だと考えるよりも、刑罰だと想像することのほうをよろこぶ。決して自分が愛されないという情況の設定が、必要不可欠なものになるのだ。サディストの孤独は絶対的なものになる。」(74ページ)
 「作家はむしろ「書く」という固定観念を、自分が置かれた歴史的状況から与えられ、(自分がそれを歴史的状況から奪取したと思うことは自由だが)、自分が生きている時代と絶対孤独との関係をたしかめるために書き出すというほうが当っている。」(272ページ)
 「表現と鎮魂が一つのものであることは、人間的表出と神的な力の残影とが一つのものであることを暗示する。それはもともと絶対アナーキーに属する情念に属し、言語の秩序を借りて、はじめて表出をゆるされたものである。しかしこれを慰藉と呼んでは、十分ではない。」(320ページ)

・高橋源一郎『日本文学盛衰史』(講談社文庫)
 「人類が誕生してからいままでにいったい何人の人間が死んだのか。問題は、誰も帰って来なかったことなのだが。残されるのは言葉ばかりで、だから、ぼくたちはおおいに死者を誤解する。だが、やがてぼくもまた誤解される側にまわるだろう。」(657ページ)

・Pasacle Roze, Itsik, Stock, 2008
 「イゾックの物語にけりをつけることはできない。その話は、凝縮され光輝きながら、他の話、自分自身の死も終末も知らず、日々なおも、彼方の領域を拡大しにやってくる話の間に置かれる。その話は、私たちの頭上、歩き、起き、寝て、また起きる人々である私たちの頭上にあって、他の話の間に置かれ、開かれたままだ、まるでもう閉じようのない傷口のように。」(119‐120ページ)

・互盛央『フェルディナン・ド・ソシュール』(作品社、2009)
 「「言語学」が出現させた言語は、「語ること」なき「語られるもの」だった。それは「人間の存在」を排除したあとにもある「言葉の存在」である。語る者がいなくても存在する言語である。それは「語ること」を可能にする言語と同じ言語なのか。もしそうでなければ、「言語学」は虚偽の存在を捏造する学問にすぎないのではないか。ならば、その一致はどうすれば確かめられるのか――問いは一挙に噴出する。その問いに肯定的な答えを与えた地点からでなければ、「言語学」は本当は始まることすらできない。」(81ページ)
 「ソシュールの「言語学」が<言語学>[ソシュールが目指しながらも挫折が必定だった、言語それ自体に言語でもって問いかける「一般言語学」の試み]なしになされたことなど一度もなかった。<言語学>を「言語学」に還元することがソシュール自身の企てだったとしても、その企てが二人の弟子の手で完成されたのだとしても、それは<言語学>を抹殺すること以外ではない。だから<言語学者>は死してなお孤独なのだ、と言ってもよい。」(89ページ)
 「言説とは、事後的に振り返ったとき、<時間>をなす肯定的辞項なき差異としての連合と単一空間性をなす連辞の次元をつなげる力なのだ。連辞に発生する「意味する力」は「人が意味するのを欲する」ことにいつもすでに先行されていることが事後的に見出されて初めて「意味する力」でありうる。だからこそ、「意味するのを欲する」のは、いかなる「私」でも「主体」でもなく、非人称の「人」でなければならない。[…]だから、拒絶しなければならない。言説とパロールを混同し、「語らえるもの」が「主体」の「意志」に肝がんされると考えることを。[…]いずれにせよ現れるのは「語られるもの」でしかないが、そうであればこそ、それが「人」の<意志>によってもたらされることを、あらゆる言葉が発されるとき、その向こう側に見なければならない。」(551‐552ページ)

・村上春樹『1Q84』(新潮社、2009)
 「看護婦は言った。「看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されてもされなくても、鼓膜が物理的に明るく震えることにかわりはありません。だから私たちは患者さんに聞こえても聞こえなくても、とにかく大きな声で明るいことを話しかけなさいと教えられます。理屈はどうであれ、それはきっと役に立つことだからです。経験的にもそう思います」
 天吾はそれについて少し考えた。「ありがとう」と天吾は言った。大村看護婦は軽くうなずいて、素早い足取りで部屋を出て行った。
 天吾と父親はそれから長いあいだ沈黙を守っていた。天吾にはもうそれ以上話すべきことがなかった。しかし沈黙はとくに居心地の悪いものではなかった。」(2、490‐491ページ)

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