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負うた子に教えられる

・コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』(黒原敏行訳、早川書房、2008)

本当は目前の仕事をこなさねばならないのだが、つい読み始めたところ、止まらなくなってしまった。でも、現実逃避に似たこういう読書が、実は、本当に楽しいものだったりする。

本書は、人間もほとんど生き残っていない荒れ果てた世界での、父と息子の旅路の物語。二人は、食糧を求めつつ、二人きりで、とにかく暖かいであろう南へと徒歩で向かう。しかしそれは、単に生き延びるための道行というわけではなく、何かを伝えねばならないという使命感に突き動かされた放浪でもある。父は、夢うつつのなかで内心、次のように述べる。

「この道には神の言葉を伝える人間が一人もいない。みんなおれを残して消え去り世界を一緒に連れていってしまった。そこで問う。今後存在しないものは今まで一度も存在しなかったものとどう違うのか。」(p.29)

この親子は、あかたも伝道師であるかのように、自分たちを「善い者」だとする。実際、人間を殺して食べてしまう人々がはびこる世界のなかで、二人は、自分たちが生き延びるために最低限のことだけを行ないながら、残虐行為にほとんど手を染めることなく、とてもストイックに歩を進めていくからだ。そして、神話的なこの物語に、終末論を展開する一神教の側面を見出すこともできるのだろう。

とはいえ、それよりも注目されるのは、食糧を探す二人の周囲の状況はその都度、描写されるのに対して、世界がどうして荒廃したのかといった大きな文脈がまるで説明されていないことによって、鍵括弧で囲われていない父と息子の会話が、いっそう、はっきりと浮かび上がってくる、という点である。「おそらく世界は破壊されたときに初めてそれがどう作られているかが遂に見えるのだろう」という本書の言葉通り(p.249)、飢餓すれすれの極限状態に置かれているからこそ、そして、寓話と言っていいくらいに装飾が削ぎ落とされているからこそ、父と息子の交わす最小限のことばが、ひしひしと胸に迫ってくる。

息子は、どうしてこのような状況に身を置くことになったのか、おそらくは理解していない。けれども、父にその理由を尋ねることはない。健気にも、息子は、いつも父に付き従い、父のことばを反芻したり、父のことばから自己確認したりする。

「お前は、悪者ってどういうのか知りたがってただろう。今はもうわかったはずだ。ああいうことはまた起こるかもしれない。パパの役目はお前を守ることだ。神さまからその役目をいいつかったんだ。お前になにかしようとするやつは殺す。わかるな?/うん。/少年は頭からかぶった毛布で身体をくるんでいた。しばらくして顔をあげた。ぼくたちは今でも善い者なの? といった。/ああ。今でも善い者だ。/これからもずっとそうだよね。/そう。これからもずっとそうだ。/わかった」(p.69)

そんな彼らは、「火」を運んでいる。息子が父に、殺人をしないことを確認しようと尋ねる。「ぼくたちは誰も食べないよね。/ああ。もちろんだ。/飢えてもだよね?/もう飢えてるじゃないか。/[…]それでもやらないんだね?/ああ。やらない。/どんなことがあっても。/そう。どんなことがあっても。/ぼくたちは善い者だから。/そう。/火を運んでるから。/火を運んでるから。そうだ。/わかった」(p.114-115)。

この物語での「火」とはまず、現実の火を指しているのだろう。実際、父と息子は、本書のなかで、暖を取るためであったり、食べ物を温めるためであったり、とにかく行き着く先々で、幾度となく、たき火をする。その意味では、文字通り、二人は火を運ぶ人である。

でも、その「火」とはまた、ことばのことでもあるだろう。というのも、二人が息も絶え絶えに運ぶのは、なによりも、ことばだからである。それまでずっと息子を率いてきた父は、とうとう息子と立場を入れ替える。「二人は道路の壊れた迫持台に腰かけて川水が逆巻き鉄格子の上をうねりながら乗り越えていくのを眺めた。彼は川向こうの土地を見やった。/どうするのパパ? と彼はいった。/どうするかな、と少年はいった」(p.250)。そして父は息子に、メッセージを残す。

「父親は息をあえがせながら少年の手を取った。先へ進むんだ、といった。パパは一緒には行けない。でもお前は先へ進まなくちゃいけない。道の先になにがあるかはわからない。パパとお前はずっと運がよかった。お前はこれからも運がいいはずだ。今にわかる。だからもう行きなさい。これでいいんだ。/行けないよ。/[…]お前は火を運ばなくちゃいけない/どうやったらいいかわからないよ。/いやわかるはずだ。/ほんとにあるの? その火って?/あるんだ。/どこにあるの? どこにあるのかぼく知らないよ。/いや知ってる。それはお前の中にある。前からずっとあった。パパには見える。/[…]絶対にぼくを置いてかないといったじゃないか。/わかってる。ごめんよ。でもパパの心は全部お前のものだ。今までもずっとそうだった。お前が一番の善い者だ。ずっとそうだったんだ。パパがいなくなっても話しかけることはできる。お前が話しかけてくれたらパパも話しかける。今にわかるよ」(p.252-253)

死してなお、生き残った者に語りかけることば。これが、父が伝道師然たる所以である。父と息子との関係とは一般に、このようなものなのかもしれない、とも思われる。子どもとは、何かを教える対象なのではなく、たぶん、それが何であるかを親からはけっして教えることのできない何かが必ず親から伝えられ、そしてその何かを理解する鍵は、ただ子どもだけがもっている、という存在なのだろう。父は、息子に対して、「先へ進むんだ」としか言わない。父のメッセージとは、字義上はそれだけだ。だが、そのメッセージによって、子どもには、生涯の宿題が課せられる。「パパには見える」けれど、「どこにある」のか「ぼく」にはわからない火。この息子がおのれのうちの火を見出すのは、きっと、いつか来たる自分の子どものなかであるに違いない。

ところで、死に直面した父から受け継がれるものと言えば、フィリップ・ロスの『父の遺言』における、父の遺産が思い起こされる。頑固で皮肉屋であり、いろんな人と衝突してきた父が、病に斃れた時、息子である語り手は、『ザ・ロード』の父子と同じように立場を入れ替えて、父に対して、「いままでいっぺんも言ったことのない四語を発したのだった。"Do as I say"――「僕の言うとおりにしなさい」と私は父に言った」(『父の遺産』柴田元幸訳、集英社文庫、p.103)。そして語り手は、父から驚くべき「遺産」を受け取るのである。

「ふんぷんたる悪臭を放つピロケースを私は階下に降ろし、黒いゴミ袋に入れて口をぎゅっと縛り、あとでランドリーに持っていくよう車のところまで運んでいって、トランクに放り込んだ。そしてこうして仕事を完了してみて、なぜこれが正しいのか、なぜしかるべき行ないなのか、私はこの上なく明確に理解した。あれこそが父の遺産なのだ。あれを掃除することが、何かほかのものの象徴だからではない。むしろ何の象徴でもないからだ。あれを掃除することこそ、生きられた現実そのものであり、それ以上でもそれ以下でもないからだ」(p.222)。

「それ」は、他人からしても息子からしてもどうにも臭く撒き散らされた物体なのだが、唯一のオブジェでもあるのであって、そのかけがえのない意味は、息子たる語り手が独りきりで理解するよりほかないものなのだ。これは、文字通り、裸の(裸形の)父子関係なのだろう。

ここでふと、父性と息子について論じているエマニュエル・レヴィナスも念頭に浮かぶ。彼は、「私」という主体が、他者の「顔」を前にした倫理性から、女性的なものと間の閉じられたエロスを踏切板として、「息子」が生み出され、無限の時間が連接される繁殖性へと至るのだ、と論じていた。しかしその子どもとは、「我が子は異質の者であるが、それはたんに私のものではないだけでなく、その子が私でもあるからだ」というように(Totalité et infini, Livre de poche, p.299。以下はすべて私の戯訳)、私でありながら私ではなく、いわばもっとも近い他者であって、所有関係など成立しようがない。

「息子は、父の唯一性を受け継ぐが、しかし父に対しては外在的なものであり続ける。つまり、息子とは唯一の息子なのだ。それは数の問題ではない。父の息子はそれぞれ、かけがえのない息子、選ばれし息子である。息子に対する父の愛は、他者の唯一性そのものとの間にただ一つ存在しうる関係を成就させる」(p.311)。

子どもを授かるという表現もあるように、子どもとは、つくるものというより、生まれてくるものなのだろう。そういえば、フランス語でも、naîtreという語は、生まれるという状態の変化を表わす自動詞だった(もっとも、出産するという動詞accoucherもあるが)――もちろん、私が出産を身をもって経験することのできない男性だから、子どもは生まれるものだなどと、気楽なことを言えるのだろう。ともあれ、子どもは、老いていく私の無限ではなく、世代を貫き、その都度刷新される無限の時間の可能性である。レヴィナスは、父性の時間にかんして、次のように記していた。

「自我が、避けることのできない死という決定的なものを経て、他者のなかへと引き延ばされる父性のなかで、時間は、おのれの不連続性を通じて、老いや運命に打ち勝つのだ。父性――自己自身でありながら他者である方法――には、時を経る事柄のもつ同一性を乗り越えられないような時間における変容といったものや、自我が化身しか知りえず、他なる自我とはなりえないような何ぞやの輪廻転生といったものとは、何ら共通点がない」(p.314-315)。

閉じられる全体性に対して、閉じられることもなく閉じられてもならない他者、切っても切れない関係に置かれた他者という無限。きっと『ザ・ロード』の息子の旅路も、そして今後は彼に寄り添っていくことになる父の旅もまた、それぞれの有限性に裏打ちされた無限という形で続くことになるのかもしれない。そう思うと、私には、何となく勇気が湧いてくるのだった。といったところで、仕事が片付くわけではないのだけれど。

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