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なし崩しの怖さ

・石牟礼道子、藤原新也 『なみだふるはな』(河出書房新社、2012

日本の原発が再起動されてしまった。福島第一原発の事故が収束せず、帰るべき土地や家をいまだ取り戻せない人々がいるのに。まずは金を稼ぐための電気が問題だろ、だって金がないと生きていけないんだから、ということなのだろうか。なかなか賛成できないけれど。

そもそも、人間が人間として生きてきた歴史と、人間が貨幣の世界に生きてきた歴史とでは、スケールがまるで異なるのだから、経済が停滞どころか沈没してしまう危険と、原発事故が再発し、少なくとも国土の一部が放射能で汚染され、少なからぬ人々が「難民」になる危険とは、たぶん、同じ土俵にはない。ジャン=ピエール・デュピュイの伝える、アメリカ先住民の箴言が思い出される。すなわち、「大地は子孫が貸してくれたもの」(『ツナミの小形而上学』嶋崎正樹訳、岩波書店、2011p.10)。

そうはいっても、これまで原発によって成り立ってきた立地自治体の人々の生活もある以上、いきなり、脱原発を実現するのはなかなか難しいのかもしれない。当事者でないながらも、それは分かる気がする(私だって、いきなり大学なんか要らない、などと言われたらとても困るし、ひどく傷つく)。しかも、これまで原子力は、少なくとも表向きは、クリーンなエネルギーという触れ込みで推進されてきたのだから、原発が日本の発展や人々の生活を支えてきたという誇りが、原発に携わる人の心にあっておかしくはない。とはいうものの、「グローバル」などという言葉が持て囃される時代に、原発を推進する経済界が、国や国民なるものをはたして助けるのか、はなはだ疑問ではある。

ところで、「生きる」という視点から、福島や水俣をめぐってなされているように見える本書の対談で、石牟礼は、水俣にやってきたチッソが電気を引いてきたときの人々の感動を、次のように語る。

 「そうして電気というものが来れば、石油もいらんし、ナタネ油もいらんし、ランプのホヤを磨かんでもいい。[]いっぺんにバッと昼のごつなる、と。実際に、そういう話し合いをしたおじいさんたちに集まってもらって話してもらったんです、もう四十年ぐらい前ですけれど。
 「それを聞いた人たちが、「そんなのがくるなら、うちの山にも電信柱を通してほしい」「うちの田んぼにも通してください」と。「そっちのほうには行かれん」と会社の人たちがいうでしょう、「それなら電信柱の影なりと、うちの畑にも映るごつしてくだはりまっせ」と(笑)」(p.84

しかしその後、近代化や雇用や収入といった「繁栄」を水俣にもたらしたチッソは、水俣病を生み出すことになる。そのとき企業は、ビジネスとしての交渉を行なう。

 「チッソを擁護したい市民の気持ちというのは痛いほどわかるし、しかしそういう気持ちをチッソの側は汲み取らないですよね。[
 「「電信柱の影なりと、うちの山を通ってくださいませ」というような気持ちを、どんなふうにとらえているのかなと思って。チッソの人にもわかってもらいたいです。そういう言葉に対して、交渉の場面でチッソの人たちが「これは単なる交渉事ですから」といったのを聞いて、「それはあまりじゃありませんか」と私がいったら、「これは文学的な問題ではありません」とチッソの人はいいました」(p.127-128)。

「文学的な問題ではない」、つまり、心の問題ではなく金の問題だ、というわけである。チッソの人のこの発言からは、人間が組織のなかで働くと、どうしてもこのようにビジネスライクに振る舞うようになるということの自覚を含めて、考えさせられる。

これは、私には、人間というものをあまりに軽く見た発言に見えてならない。というのも、この問題は、まさしく「文学的な問題」だと思うからだ。人間は、そもそも貨幣のために生きるのではなく、よりよく生きるために貨幣の助けを借りるのではないか。それはつまり、貨幣など、人間の幸福の指標ではない、あるいは少なくとも唯一の指標ではない、ということである。そもそも、本来的には、報酬としての貨幣ではなく、仕事や活動が幸福感や誇りをもたらすのだろう。むろん、このような考えは、働くのは稼ぐためだという労働の時代にあっては、原則論にしかならないのかもしれないけれど、混乱の時にあっては、原理に立ち返って考えてみてもいいのではないかと思う(現代の日本の若者が、金は足りるだけでよいと考え、消費活動にさほど関心を寄せなくなっている、という話を聞いたことがあるが、さもありなんという気もする)。

ともあれ、私が理解できないのは、福島第一原発の事故が収束していないのに、原発の再稼働やそれにまつわる事柄(原子力基本法の変更)が、「なし崩し的にしか」進められていない、という点だ。原子力技術が「我が国の安全保障に役立つ」というのであれば、それこそ国民的合意を得なければならない論点なのではなかろうか。

とはいえ、このように、なし崩し的に物事を決めるということこそ、現代の特徴なのかもしれない。デュピュイは、「[]あらゆる領域の多種多様な決定、悪意やエゴイズムよりもむしろ近視眼でもって特徴づけられる数々の決定が、自己外在化ないし自己超越のメカニズムに即して、屹立する全体を構成する[]」と述べていた(前掲書、p.119)。しかし、この「近視眼」がたとえ不可避のものであっても、種々の決定は、短見でもって下されるという意識や自覚を失ってはなるまい。その際には、やはり、「生きる」という「文学的な」原点に立ち返るのが有益だろう。なぜなら、そうした原点から眺めることは、短見を相対化する視点をもたらしてくれるからだ。

今後も、「このままでは待ったなし」という切迫感のみによって、未来への何のヴィジョンももたぬまま重大な事が進んでしまうことが、とても恐ろしい。「なし崩し」だけで物事が話し合われ決まってしまうと、誰も責任をとらなくなる。だから、「なし崩し」が良い場合も日常生活では多々あるけれど、国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するはずの政治がそれでは、やはり困るだろう。むろん、そういう政治体制を選んでいる国民たる私にも責任はある。

(なぜか、これまでの記事と異なるフォントになってしまった。直し方がわからないので、このままにしておきます)

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