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呪われた作家たち4

 1945119日、対独協力者を裁く裁判において、被告に死刑の判決が言い渡された瞬間、「恥だ!」との傍聴席からの興奮した声に、被告席から「これは名誉だ!」との声が上がる。冷静なその声の主はロベール・ブラジヤック。裁判はわずか6時間ほどで結審した

 「ジュ・スィ・パルトゥ〔「私は神出鬼没」の意〕」紙のシャルル・レスカら多くの対独協力者は、「ジュ・スィ・パルティ〔「私は逃げ出した」の意〕」などと揶揄されながら、
1944年、独軍の退却に伴ってドイツに亡命し、戦争終結まで、フランスにファシズム体制を築くことを唱え続けた。だが、ブラジヤックはフランスから逃げなかった。彼は、「「ジュ・スィ・パルトゥ」紙はこの4年間、読者に対して、たとえ連合国軍がフランスに上陸したとしても、命を惜しんでドイツに亡命したりすべきではないとくりかえし主張してきたのだ。[…]わたし自身は、その主張のとおりパリにとどまる決心をしていたが、そのことで後悔はしていなかった」という自分の論理を最期まで誠実に貫いたのだった(ロベール・ブラジヤック『われらの戦前/フレーヌ獄中の手記』高井道夫訳、国書刊行会)。彼は、母が自分の身代りとして逮捕されたことを知って出頭したのである。

 対独協力者に対する裁判は、パリ解放後の
194410月からド・ゴール派の主導で進められたが、陪審員は、共産党員の作成するレジスタンス一覧の市民から抽選で決められた。フランス人がフランス人を反フランス勢力として裁くこの裁判は奇妙だった。なぜなら、対独協力者の裁判に携わる法曹関係者の多くは、第三共和政から司法に携わり、ヴィシー時代にはフィリップ・ペタンに忠誠の宣誓をしていたからだ。44年秋にはド・ゴールがヴィシー政府を非合法だったと宣言したからなおさらである。そこで、対独協力者のヴィシー時代を裁く裁判の正当性は、ヴィシー政府の歴史を無視して、第三共和政の刑法第75条の外患罪に置かれたのだった。

 そんなブラジヤック裁判の検事となったのは、第三共和政時代から美声と雄弁をもって鳴らしたマルセル・ルブール。弁護士は、
30年代にブラジヤックも参加していた反ユダヤ主義色の濃い「コンバ」紙上で、数人のユダヤ人を秘書として登用する弁護士として攻撃されながらも、後にブラジヤックのみならずペタンの弁護人を務めることになるジャック・イゾルニ。この二人は奇遇にも、隣人同士で友人でもあった。

 戦中のブラジヤックの文章のうち今日の読者の注意を引くのは、むしろ激越なその反ユダヤ主義である。彼は大戦中「ユダヤ人は皆まとめて隔離せねばならず、チビどもも残すべきではない」
などと記し、ユダヤ人の殲滅(移送)を肯定していたのだから(Robert Brasillach, Oeuvres complètes, tome XII, Le club de l’honnête homme)。しかも「ジュ・スィ・パルトゥ」紙は大戦中、平均して毎週15万から30万部という占領地域ではかなり大きな発行部数を誇っていたのであり、その影響力は小さくなかった

 とはいえ、この裁判の性質上、彼の罪状は対敵通牒だった。イゾルニは暫定政府下での裁判の正当性に疑念を呈し、ブラジヤックは「フランスの対独協力者たちは祖国を荒らすような人たちではなく、祖国が荒らされるのを防ごうとしたのです」と、自身の対独協力をモラルの点から自己弁護する。

 しかし、ブラジヤックが、誰に強いられたわけでもなく自らの意思で、第三共和政を憎むあまり、「もし祖国の敵のなかで誰かを選べるならば[…]我々はためらうことなく選ぶだろう。マンデルとレイノーこそ最初に絞首刑に処すべきである」
などとその首脳部の死を要求し(ibid.)、ドイツ文化のプロパガンダの場となったリーヴ・ゴーシュ書店の経営に携わり、フランスの作家代表団の一員としてナチの組織したワイマール旅行に加わった点に変わりはなかった。そして、人類に対する罪が創設されている今日でこそしばしば取り上げられる先の反ユダヤ主義の言説とて、外患罪の観点から、ブラジヤックによる同胞の密告を示唆する証拠として取り沙汰されたにすぎない。あくまでも「粛清の目的は、国を再建し、国の尊厳を取り戻すことにあったのである」(Alice Kaplan, Intelligence avec l’ennemi, trad. de l'anglais par Bruno Poncharal, Gallimard

 当時の人々にとって、ブラジヤック裁判の最大の衝撃は、優れた作家の文筆活動を政治的に裁くという点にあった。他の対独協力者の場合とは異なって、彼の裁判がフランスの知識人にとって転換点となったのは、文学者の社会的責任という問いが各作家に突きつけられたからである。

 ブラジヤックは、戦争がまだ続いている最中の
194526日、判決から3週間足らずで死刑に処された。彼の才能と知性ゆえに、ド・ゴールは各方面からの助命嘆願を退けたのだ。この処刑以後、政府は作家の処刑に慎重になった。たとえば、「ジュ・スィ・パルトゥ」紙に最後まで残ったリュシアン・ルバテは、1946年に死刑判決を受けるも、すでに粛清を厭う世論もあって執行を免れている。

 ブラジヤック裁判以降、フランス文学は、作家の社会的責任を主張する実存主義の隆盛を迎え、次第に彼とその時代を闇に葬りながら、新たな出発を迎えることになるのである。

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