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呪われた作家たち8

 政治的な事柄にはまるで無縁と思われていたのに、ドイツによる占領が始まるや親独的発言を繰り返して、周囲を驚かせた作家。大ブルジョワの家に1884年に生まれたジャック・シャルドンヌは、おそらくその一人だろう。シャルドンヌといえば、若い妻を愛するあまりその貞淑を試すに至って、かえって妻のみならず自身をも嫉妬で苦しめてしまう中年男性の物語『ロマネスク』など、フランス文学の伝統である繊細な心理分析に長け、男女のカップルを描くことにかけては右に出る者がいないと形容される書き手だった。

 だが彼は、ゲッべルスの招きに応じて、ロベール・ブラジヤックやピエール・ドリュ・ラ・ロシェルらとともにワイマールに赴き、フランス作家団長まで務めたのである。


 シャルドンヌは、大戦中に「ドイツの力のみが共産主義からヨーロッパを救うことができたのである」と記し(
Jacques Chardonne, Voir la figure, Grasset、圧倒的な勝利を収めたドイツこそがヨーロッパの中心をなすべきだと考え、ドイツを「勝利者」と呼んで憚らない。「力で打ち負かされた者は、この力を貶してはならないし不平をこぼしてもならない。[…]正義の問いを立てるのは勝利者なのだ」(Jacques Chardonne, Chronique privée de l’an 1940, Stock

 とはいえ、占領軍に対する彼の好意は、綿密な観察から織り成されるその文学作品と同様に、イデオロギーというよりはむしろ、日常生活のレベルで寄せられていたかに見える。彼は、進駐ドイツ軍を警戒するどころか大歓迎するシャラント県の人々を描き、「あなた方をこちらからご招待できればよかったのですがね。[…]ともかく、私のコニャックを召し上がってください。心からの贈り物です」という、コニャック醸造者のドイツ軍兵士に対する言葉を記している(
Jacques Chardonne, « L’été à La Maurie », La nouvelle revue française, déc 1941。そこに敗北の苦々しさは微塵もない。アメリカは戦後の日本に民主主義をもたらしたとも言えるわけで状況は単純には比較できないが、それでもシャルドンヌは、たとえば、敗北を描いた野坂昭如「アメリカひじき」のような(新潮文庫)、「敗けること」のもつ屈辱とある種の満足感の入り混じった卑屈さからは程遠く、まるで屈託がない。

 シャルドンヌのこの文章が発表されたのは
4012月、ドリュを新編集長とした『新フランス評論(NRF)』の復刊号だったが、これを読んだジャン・ポーランは「シャルドンヌは唾棄すべき腰抜け」とマルセル・ジュアンドーに書き送っている。占領中にシャルドンヌが発表した『1940年の私的時評』などの時事的な作品が、占領軍への阿諛追従と映ったのは不思議ではない。たとえば、この文章と同じ号に掲載され、奥歯に物が挟まったような文体で書かれたアンドレ・ジッドの文章は、「誰もが苦しみかねない敗北の間接的な結果を思い描くには、多くの想像力と、極めて稀な素質、つまり推論の素質が必要だ」と述べるなど(André Gide, « Feuillets », La nouvelle revue française, déc 1941、どうにかしてフランス精神の矜持を保ちつつ占領下で文章を発表しようと試みているのだった。実際、シャルドンヌの作品を読んだ後、NRFの創刊者の一人であるジッドは、もう自分はNRFには書かないとドリュに対して通告している。

 それにしても、シャルドンヌは、文学を愛する検閲官ゲルハルト・ヘラーや、規律を守る身近のドイツ兵たちを眺めて政治的判断を下してしまうほどにナイーヴだったのか。
4211月にフランス全土が占領されると、ヴィシーは警察国家の道を歩み始め、当初、対独協力を選んだ人々は抜き差しならぬ状況へと足を踏み入れつつあったが、彼は、その直前の10月、第2回ワイマール旅行に参加した。「彼の目には国民社会主義の全体主義的性格がまるで見えなかったよう」なのだ(Paul Sérant, Dictionnaire des écrivains français sous l’Occupation, Grancher

 逆説的だが、大戦中、シャルドンヌは自由闊達に振舞った。
2度までワイマール旅行に参加する一方で、政治的にも文学的にもシャルドンヌとは相容れない作家レイモン・ゲランが捕虜収容所に捕えられると、その釈放をヘラーに働きかけ、これに成功する。また、シャルドンヌの息子ジェラールは、レジスタンスに身を投じ、43年逮捕されて収容所に送られるが、父親はドイツ当局とのコネクションの限りを尽くして息子を解放させている。だが、彼は息子と行動を共にすることはなく、未刊の作品で43年においてなお、「国民社会主義は人間味あふれる人物を中心にして新世界を創造した」という文章を記すのだった(Jacques Chardonne, Le ciel de Nieflheim, inédit ; Ginette Guitard-Auviste, Jacques Chardonne, Albin Michelに引用。 なお、本書を出版しないようシャルドンヌに勧めたのはヘラーである

 パリ解放後、シャルドンヌは、コニャック地方の監獄に
6週間捕えられた。その間に記された死後出版の手記には、「私は、今まさに私たちを追放する人々に代わって、ドイツによる支配を軽減しようとしてきたのだし、それには危険がないわけではなかったのだ」などと記され、自己弁護の姿勢が色濃く滲んでいる。だがそこにはまた、フランス人がフランス人を拷問にかけ処刑したレジスタンスの復讐心について、「私たちのいるフランス南西部で19448月から12月の間に起こったことは、決して明らかにはされないだろう。身代金や拷問のことは闇に葬られる。犠牲者がみな裏切り者だったわけではないのだ。選ぶ時間がなかったのだから」との文言も読まれる(Jacques Chardonne, Détachements, Albin Michel, 1969。ファシストではなかったが、ナチスやヴィシーの未曽有の蛮行について度し難く盲目でもあったシャルドンヌは、それゆえにこそ、対独協力の曖昧さやレジスタンスの多面性を浮き彫りにしているかのようである。

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