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呪われた作家たち9

 「美徳というのは一つしかない。すなわち軽率さである」(Marcel Jouhandeau, L’éloge de l’imprudence, Noé。マルセル・ジュアンドーは、おそらく、自身のこの言葉どおり、傍から見ればきわめて軽率に、占領期のパリを生きた人物である。

 1888
年、リムーザン地方の町ゲレに生まれたジュアンドーは、20年代から『新フランス評論(NRF)』などに文章を発表し始め、ジャン・ポーランと知り合って固い友情で結ばれるが、他方で、29年にエリーズと結婚するものの、実のところ、彼はすでに同性愛の衝動を自分のうちに感じていた。

 ドイツ軍の進撃を前にしてパリ市民が大挙して街を脱出した
19406月、ジュアンドーは妻とともにパリに残った。後日刊行された『占領下日記』には、人気のなくなったパリに留まるという決意が、「窓の下を一段の人々が歩いて通って行くのを眺めながら、私たちは二人きりで抱擁しあってじっとしていた。そして私は、妻が「あなたと苦しみを共にして、一緒に死んでいくことが、私にとっては唯一の慰めなの」などと口にしたとき、たとえこうして二人でいることがけっして融合をもたらしはしないとしても、二人でいることの力をつかの間感じたのだった」と示されている(Marcel Jouhandeau, Journal sous l’Occupation, Gallimard

 しかし、この『日記』に読まれるのは、戦局や当時のパリの観察というよりは、きわめて私的な日々の事柄である。これは戦後にかなり修正されていると思しき
虚実ない交ぜの日記ではあるが、それでも、占領下のジュアンドーについては、アンドレ・ジッドが「パリのヒトラー派には、真面目な人々、裏切り者、追従者、感傷的な人々など、いろんな手合いがいる。ジュアンドーは感傷的な一人で、彼の意見は重きをなしていない」と述べたと、ジャン・グルニエが伝えているように(Jean Grenier, Sous l’Occupation, Claire Paulhan、おおよそ政治的ではなかった。

 そんなジュアンドーが、パリ解放後に全国作家委員会の対独協力作家リストに名を連ねたのは、戦前から反ユダヤ主義を表明していたことに加えて、何よりも、
1940年秋の第1回ワイマール旅行に参加したからである。

 1936
年、ユダヤ人レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立するや、極右リーグの面々を筆頭に、激しい反ユダヤのキャンペーンが繰り広げられるが、ジュアンドーは突如として、明確な理由もなく反ユダヤ主義を表明し始めた。「どのようなユダヤ人であれ、彼らをフランス市民と見なすことは、フランスとフランス人をひどく侮辱することだ」と記したジュアンドーは(Marcel Jouhandeau, Le peril juif, Sorlot ; cité par Pierre Hebey, La nouvelle revue française des années sombres, Gallimard、ポーランらの度重なる説得にもかかわらず、自分の反ユダヤ主義を翻さなかったのである。

 そして
1941年、ドイツ宣伝梯隊のゲルハルト・ヘラーは、フランス作家団をワイマールに引率するに際して、ジュアンドーに参加を呼びかける。ジュアンドーは逡巡したが、フランスの作家たちがこのプロパガンダ旅行に参加することでフランス人捕虜が釈放されるかもしれないと友人に説得されたこともあり、最終的に参加することになる(実際にこの旅行の後に釈放された囚人もいた)。そして帰国後、彼はドイツ当局との約束どおり、「フランスにとっては今こそ自分自身を把握し、ドイツを理解し、ドイツはこれまで我々が教えられてきたような国でないことを理解し、そしてまた、アドルフ・ヒトラーの人々はインターナショナリズムが躍起になって我々をして彼らを憎悪せしめようとしてきた姿とは異なるのだということを理解すべき時ではあるまいか」いった(Marcel Jouhandeau, « Témoignages », NRF, déc 1941)、ナチスドイツを擁護する文章を発表している。

 しかし、このワイマール旅行の報告を最後に、「
19421月以降、彼は口を噤み、政治色のある文章は一行たりとも書かなかった」し(Jacques Roussillat, Marcel Jouhandeau, Bartillat、彼が当時発表した文章のほとんどは文学作品だった。しかも、ドイツ旅行について戦後出版された彼の『秘密の旅行』には、政治的な主張ではなく、「Hと私は、唖者のように愛し合った。[…]私たちは手をつなぎ、興奮して生気溢れる眼差しで見つめ合ったのだった」という記述をはじめとして(Marcel Jouhandeau, Le voyage secret, Alréa)、ヘラーやドイツの青年ハンス・バウマンに対する愛情が描かれているのである。まるで彼らへの愛情から衝動的にワイマールへ赴いたかのごとくだ。翌42年秋には第2回ヨーロッパ作家会議が開催されるが、ジュアンドーは自宅の修繕を理由に参加しなかった。

 1944
年春、ジュアンドーは、自分の大戦中の行動がどのような意味をもつことになったのか理解し、いささか高慢にも、「もしいま知っていることを1939年から40年の段階で知っていたならば、私は間違いなく実際とは違った風に振舞っただろう。けれども、良かれと思ったことを信じながら私は率直に道を誤ったんだ」とポーランに書き送ったという(Cf. Jacques Roussillat, op.cit.

 そんな彼に対して、ポーランは珍しく激高して、「君は危険に晒されているわけじゃない。収容所で先日亡くなったのは君ではなく、マックス・ジャコブだ。[…]処刑を逃れるために身を隠さざるをえなかったのは君ではなく、アラゴンでありエリュアールでありモーリヤックだ。[…]私たちの誰もが勇気を示さねばならなかったとき、(ほとんど)君だけが命を危険に晒すことなく、穏やかな生活を送ったのだ。君が、何一つ熟慮の上では行動できないことも、平穏な生活を望まずと手に入れたことも、私とてよく知っている。とはいえ結局、君は平穏を手にしているじゃないか」と、まるで子供を叱る大人のように、手厳しく返事したのだった(
Jean Paulhan, Choix de lettres, tome II, Gallimard

 戦時中という危機的な局面においても、ジュアンドーは、軽はずみにも、おのれの衝動に駆られるまま振舞った。彼はその帰結に苦しんだのだろうか。いや、ひょっとすると、第
2回ワイマール旅行を周到に断ったことや、悪妻と知りながら最期までエリーズと共に生活したことにも見られるように、自ら進んで軽率さを楽しんでいたのかもしれない。

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