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呪われた作家たち10

 

 プロヴァンス地方の高地。うらびれた農村にやってきた流れ者のボビは、農民の一人にこう告げる。「あんたは、世界をどうしても愛してしまうようにできているんだよ」(ジャン・ジオノ『喜びは永遠に残る』山本省訳、河出書房新社。ジャン・ジオノの『喜びは永遠に残る』は、これをきっかけに農村の人々に交流がもたらされる物語。彼らは次第に、自然の中に生きる生命の喜びを感じるようになるのだが…… 


 
1895年南仏生まれで独学の作家ジオノは、山間の自然を舞台にした農民や職人たちの、いささか苦みを含みながらも心温まる物語を描き続けた。戦前からすでに人気のあったそんな彼の名が、パリ解放後に対独協力作家の粛清を進めた全国作家委員会(CNE)による「望ましからぬ作家のリスト」に見出されることは、とても意外にも思われる。彼はまるで党派的ではなかったからだ。だが彼は「生涯を通じてしばしば起こったことだが、種々の陣営から声をかけられ、またその結果、種々の対立陣営から攻撃された」のである(Pierre Citron, Jean Giono, Seuil

 第一次大戦に従軍したジオノは、それ以来、平和主義者となる。第二次大戦直前の
19396月に「平和主義者たらんとする勇気をもたぬ者は軍人である」と記した彼は(Jean Giono, Recherche dela pureté, in Récits et essais, Gallimard, col. Pléiade、同年9月の開戦時には徴兵のポスターに「Non」と記すなど反戦を唱えたが、その数日後、驚くべきことについに動員令に応じてしまい、平和主義の仲間たちの顰蹙を買うことになる。しかしいざ召集されてみると、今度はその直前の反戦活動を咎められ、逮捕された挙げ句に2ヶ月間拘留されるのである。

 戦前から、物質主義的な都市文化に対抗する農民たちの反乱を思い描いていた彼は、フランスの敗戦を、パリに代表される旧秩序の一掃として捉えたものの、釈放後には政治的な文章を書かず、大戦中は、かねてから取り組んでいた『白鯨』の仏訳をはじめとして、もっぱら文学的な作品を出版している。しかも大戦中、彼は自宅にドイツ人のコミュニストやユダヤ人を匿っており、脱走兵や、援助を求めに来た人たちを助けたりもしていた。それゆえ「
19448月、フランス暫定政府の南西部担当委員がここにやって来るや「何だと?まだジオノを逮捕していないのか」と述べたと周囲が繰り返し説得しても、彼は自分の住む町を離れることなど考えなかったのである」(Pierre Assouline, L’épuration des intellectuels, Complexe

 とはいえ、当時、彼が文章を発表していたのは、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルが編集する親独的な『新フランス評論』であり、あるいは、対独協力路線を歩んでいたアルフォンス・ド・シャトーブリアンの雑誌『ラ・ジェルブ』なのだった。また彼は、何度かパリに赴き、ドイツ軍の闊歩する文壇に交わり、第
2回ワイマール旅行に招待されてもいる。またしても不器用なことに、彼は、直後に断ることになるものの一旦はこの招待を承諾してしまう。さらに、彼が作品で描いてきた「大地への回帰」がヴィシー派によって流用されたことに加え、ドイツの雑誌に彼の紹介記事が写真入りで掲載されたこともあった。

 そして、これらの事柄によって、ジオノは対独協力者として名指されるばかりか、トリスタン・ツァラから「ドイツ野郎が現われ、ディドロ、ボードレール、ランボーの言葉が裏切りに利用されるところではどこでも、ジオノは露骨に卑劣な態度を取った」と痛烈に批判されるのである(
Pierre Citron, op.cit.. なお、この批判については、後にジョルジュ・デュアメルらが取り消させようとしている

 その一方で彼は、相も変わらぬ平和主義者であることによって、大戦中、断固たる対独協力派からもまた、疑わしく思われていた。「[…]親独的で反ユダヤ主義の『オ・ピロリ』誌では「ガリマールと美しき仲間たち」が槍玉に挙げられ、シュルレアリストやシオニスト、反ナチ(マルロー)に加えてジオノのような平和主義者の文章を発表しているとして攻撃されていた」のであり(
Pierre Citron, ibid.43年には、戯曲『四輪馬車の旅』がレジスタンスを想起させるとして、ドイツ当局によって上演禁止の憂き目にあっているのだ。しかしながら、彼は449月、今度はレジスタンス派によって捕えられ、6ヶ月近く拘留されるのである。

 ジオノは、
1930年代の一時期コミュニズムに接近しはしたが、ソ連に幻滅してけっしてコミュニストにはならなかったし――このことはCNEのルイ・アラゴンの心証を害していた――、大戦中に親独的雑誌に文章を発表していたが、ファシストではなかった。まさしく「ジオノはあらゆる政治を嫌うといったが、その結果最悪の政治を耐え忍ぶ」こととなったのである(ゲルハルト・ヘラー『占領下のパリ文化人』大久保敏彦訳、白水社

 しかし、身近な人を助けながらも、開戦当初はフランス軍から睨まれ、大戦中は対独協力者から不信の目を向けられ、パリ解放後はレジスタンスから対独協力者として扱われるなど、一見すると一貫性を欠くジオノの遍歴は、「平和主義者はいつも孤独だ」という自身の言葉どおり、妥協を知らぬ独立不羈の現われにほかならなかったのであり、
たとえそれが傍から見て首尾一貫しないものに見えたとしても、たいしたことではなかったのである。

 

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呪われた作家たち9

 「美徳というのは一つしかない。すなわち軽率さである」(Marcel Jouhandeau, L’éloge de l’imprudence, Noé。マルセル・ジュアンドーは、おそらく、自身のこの言葉どおり、傍から見ればきわめて軽率に、占領期のパリを生きた人物である。

 1888
年、リムーザン地方の町ゲレに生まれたジュアンドーは、20年代から『新フランス評論(NRF)』などに文章を発表し始め、ジャン・ポーランと知り合って固い友情で結ばれるが、他方で、29年にエリーズと結婚するものの、実のところ、彼はすでに同性愛の衝動を自分のうちに感じていた。

 ドイツ軍の進撃を前にしてパリ市民が大挙して街を脱出した
19406月、ジュアンドーは妻とともにパリに残った。後日刊行された『占領下日記』には、人気のなくなったパリに留まるという決意が、「窓の下を一段の人々が歩いて通って行くのを眺めながら、私たちは二人きりで抱擁しあってじっとしていた。そして私は、妻が「あなたと苦しみを共にして、一緒に死んでいくことが、私にとっては唯一の慰めなの」などと口にしたとき、たとえこうして二人でいることがけっして融合をもたらしはしないとしても、二人でいることの力をつかの間感じたのだった」と示されている(Marcel Jouhandeau, Journal sous l’Occupation, Gallimard

 しかし、この『日記』に読まれるのは、戦局や当時のパリの観察というよりは、きわめて私的な日々の事柄である。これは戦後にかなり修正されていると思しき
虚実ない交ぜの日記ではあるが、それでも、占領下のジュアンドーについては、アンドレ・ジッドが「パリのヒトラー派には、真面目な人々、裏切り者、追従者、感傷的な人々など、いろんな手合いがいる。ジュアンドーは感傷的な一人で、彼の意見は重きをなしていない」と述べたと、ジャン・グルニエが伝えているように(Jean Grenier, Sous l’Occupation, Claire Paulhan、おおよそ政治的ではなかった。

 そんなジュアンドーが、パリ解放後に全国作家委員会の対独協力作家リストに名を連ねたのは、戦前から反ユダヤ主義を表明していたことに加えて、何よりも、
1940年秋の第1回ワイマール旅行に参加したからである。

 1936
年、ユダヤ人レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立するや、極右リーグの面々を筆頭に、激しい反ユダヤのキャンペーンが繰り広げられるが、ジュアンドーは突如として、明確な理由もなく反ユダヤ主義を表明し始めた。「どのようなユダヤ人であれ、彼らをフランス市民と見なすことは、フランスとフランス人をひどく侮辱することだ」と記したジュアンドーは(Marcel Jouhandeau, Le peril juif, Sorlot ; cité par Pierre Hebey, La nouvelle revue française des années sombres, Gallimard、ポーランらの度重なる説得にもかかわらず、自分の反ユダヤ主義を翻さなかったのである。

 そして
1941年、ドイツ宣伝梯隊のゲルハルト・ヘラーは、フランス作家団をワイマールに引率するに際して、ジュアンドーに参加を呼びかける。ジュアンドーは逡巡したが、フランスの作家たちがこのプロパガンダ旅行に参加することでフランス人捕虜が釈放されるかもしれないと友人に説得されたこともあり、最終的に参加することになる(実際にこの旅行の後に釈放された囚人もいた)。そして帰国後、彼はドイツ当局との約束どおり、「フランスにとっては今こそ自分自身を把握し、ドイツを理解し、ドイツはこれまで我々が教えられてきたような国でないことを理解し、そしてまた、アドルフ・ヒトラーの人々はインターナショナリズムが躍起になって我々をして彼らを憎悪せしめようとしてきた姿とは異なるのだということを理解すべき時ではあるまいか」いった(Marcel Jouhandeau, « Témoignages », NRF, déc 1941)、ナチスドイツを擁護する文章を発表している。

 しかし、このワイマール旅行の報告を最後に、「
19421月以降、彼は口を噤み、政治色のある文章は一行たりとも書かなかった」し(Jacques Roussillat, Marcel Jouhandeau, Bartillat、彼が当時発表した文章のほとんどは文学作品だった。しかも、ドイツ旅行について戦後出版された彼の『秘密の旅行』には、政治的な主張ではなく、「Hと私は、唖者のように愛し合った。[…]私たちは手をつなぎ、興奮して生気溢れる眼差しで見つめ合ったのだった」という記述をはじめとして(Marcel Jouhandeau, Le voyage secret, Alréa)、ヘラーやドイツの青年ハンス・バウマンに対する愛情が描かれているのである。まるで彼らへの愛情から衝動的にワイマールへ赴いたかのごとくだ。翌42年秋には第2回ヨーロッパ作家会議が開催されるが、ジュアンドーは自宅の修繕を理由に参加しなかった。

 1944
年春、ジュアンドーは、自分の大戦中の行動がどのような意味をもつことになったのか理解し、いささか高慢にも、「もしいま知っていることを1939年から40年の段階で知っていたならば、私は間違いなく実際とは違った風に振舞っただろう。けれども、良かれと思ったことを信じながら私は率直に道を誤ったんだ」とポーランに書き送ったという(Cf. Jacques Roussillat, op.cit.

 そんな彼に対して、ポーランは珍しく激高して、「君は危険に晒されているわけじゃない。収容所で先日亡くなったのは君ではなく、マックス・ジャコブだ。[…]処刑を逃れるために身を隠さざるをえなかったのは君ではなく、アラゴンでありエリュアールでありモーリヤックだ。[…]私たちの誰もが勇気を示さねばならなかったとき、(ほとんど)君だけが命を危険に晒すことなく、穏やかな生活を送ったのだ。君が、何一つ熟慮の上では行動できないことも、平穏な生活を望まずと手に入れたことも、私とてよく知っている。とはいえ結局、君は平穏を手にしているじゃないか」と、まるで子供を叱る大人のように、手厳しく返事したのだった(
Jean Paulhan, Choix de lettres, tome II, Gallimard

 戦時中という危機的な局面においても、ジュアンドーは、軽はずみにも、おのれの衝動に駆られるまま振舞った。彼はその帰結に苦しんだのだろうか。いや、ひょっとすると、第
2回ワイマール旅行を周到に断ったことや、悪妻と知りながら最期までエリーズと共に生活したことにも見られるように、自ら進んで軽率さを楽しんでいたのかもしれない。

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呪われた作家たち8

 政治的な事柄にはまるで無縁と思われていたのに、ドイツによる占領が始まるや親独的発言を繰り返して、周囲を驚かせた作家。大ブルジョワの家に1884年に生まれたジャック・シャルドンヌは、おそらくその一人だろう。シャルドンヌといえば、若い妻を愛するあまりその貞淑を試すに至って、かえって妻のみならず自身をも嫉妬で苦しめてしまう中年男性の物語『ロマネスク』など、フランス文学の伝統である繊細な心理分析に長け、男女のカップルを描くことにかけては右に出る者がいないと形容される書き手だった。

 だが彼は、ゲッべルスの招きに応じて、ロベール・ブラジヤックやピエール・ドリュ・ラ・ロシェルらとともにワイマールに赴き、フランス作家団長まで務めたのである。


 シャルドンヌは、大戦中に「ドイツの力のみが共産主義からヨーロッパを救うことができたのである」と記し(
Jacques Chardonne, Voir la figure, Grasset、圧倒的な勝利を収めたドイツこそがヨーロッパの中心をなすべきだと考え、ドイツを「勝利者」と呼んで憚らない。「力で打ち負かされた者は、この力を貶してはならないし不平をこぼしてもならない。[…]正義の問いを立てるのは勝利者なのだ」(Jacques Chardonne, Chronique privée de l’an 1940, Stock

 とはいえ、占領軍に対する彼の好意は、綿密な観察から織り成されるその文学作品と同様に、イデオロギーというよりはむしろ、日常生活のレベルで寄せられていたかに見える。彼は、進駐ドイツ軍を警戒するどころか大歓迎するシャラント県の人々を描き、「あなた方をこちらからご招待できればよかったのですがね。[…]ともかく、私のコニャックを召し上がってください。心からの贈り物です」という、コニャック醸造者のドイツ軍兵士に対する言葉を記している(
Jacques Chardonne, « L’été à La Maurie », La nouvelle revue française, déc 1941。そこに敗北の苦々しさは微塵もない。アメリカは戦後の日本に民主主義をもたらしたとも言えるわけで状況は単純には比較できないが、それでもシャルドンヌは、たとえば、敗北を描いた野坂昭如「アメリカひじき」のような(新潮文庫)、「敗けること」のもつ屈辱とある種の満足感の入り混じった卑屈さからは程遠く、まるで屈託がない。

 シャルドンヌのこの文章が発表されたのは
4012月、ドリュを新編集長とした『新フランス評論(NRF)』の復刊号だったが、これを読んだジャン・ポーランは「シャルドンヌは唾棄すべき腰抜け」とマルセル・ジュアンドーに書き送っている。占領中にシャルドンヌが発表した『1940年の私的時評』などの時事的な作品が、占領軍への阿諛追従と映ったのは不思議ではない。たとえば、この文章と同じ号に掲載され、奥歯に物が挟まったような文体で書かれたアンドレ・ジッドの文章は、「誰もが苦しみかねない敗北の間接的な結果を思い描くには、多くの想像力と、極めて稀な素質、つまり推論の素質が必要だ」と述べるなど(André Gide, « Feuillets », La nouvelle revue française, déc 1941、どうにかしてフランス精神の矜持を保ちつつ占領下で文章を発表しようと試みているのだった。実際、シャルドンヌの作品を読んだ後、NRFの創刊者の一人であるジッドは、もう自分はNRFには書かないとドリュに対して通告している。

 それにしても、シャルドンヌは、文学を愛する検閲官ゲルハルト・ヘラーや、規律を守る身近のドイツ兵たちを眺めて政治的判断を下してしまうほどにナイーヴだったのか。
4211月にフランス全土が占領されると、ヴィシーは警察国家の道を歩み始め、当初、対独協力を選んだ人々は抜き差しならぬ状況へと足を踏み入れつつあったが、彼は、その直前の10月、第2回ワイマール旅行に参加した。「彼の目には国民社会主義の全体主義的性格がまるで見えなかったよう」なのだ(Paul Sérant, Dictionnaire des écrivains français sous l’Occupation, Grancher

 逆説的だが、大戦中、シャルドンヌは自由闊達に振舞った。
2度までワイマール旅行に参加する一方で、政治的にも文学的にもシャルドンヌとは相容れない作家レイモン・ゲランが捕虜収容所に捕えられると、その釈放をヘラーに働きかけ、これに成功する。また、シャルドンヌの息子ジェラールは、レジスタンスに身を投じ、43年逮捕されて収容所に送られるが、父親はドイツ当局とのコネクションの限りを尽くして息子を解放させている。だが、彼は息子と行動を共にすることはなく、未刊の作品で43年においてなお、「国民社会主義は人間味あふれる人物を中心にして新世界を創造した」という文章を記すのだった(Jacques Chardonne, Le ciel de Nieflheim, inédit ; Ginette Guitard-Auviste, Jacques Chardonne, Albin Michelに引用。 なお、本書を出版しないようシャルドンヌに勧めたのはヘラーである

 パリ解放後、シャルドンヌは、コニャック地方の監獄に
6週間捕えられた。その間に記された死後出版の手記には、「私は、今まさに私たちを追放する人々に代わって、ドイツによる支配を軽減しようとしてきたのだし、それには危険がないわけではなかったのだ」などと記され、自己弁護の姿勢が色濃く滲んでいる。だがそこにはまた、フランス人がフランス人を拷問にかけ処刑したレジスタンスの復讐心について、「私たちのいるフランス南西部で19448月から12月の間に起こったことは、決して明らかにはされないだろう。身代金や拷問のことは闇に葬られる。犠牲者がみな裏切り者だったわけではないのだ。選ぶ時間がなかったのだから」との文言も読まれる(Jacques Chardonne, Détachements, Albin Michel, 1969。ファシストではなかったが、ナチスやヴィシーの未曽有の蛮行について度し難く盲目でもあったシャルドンヌは、それゆえにこそ、対独協力の曖昧さやレジスタンスの多面性を浮き彫りにしているかのようである。

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呪われた作家たち7

 194110月、フランスの出版物の検閲官ゲルハルト・ヘラーは、ワイマールで催される第1回ヨーロッパ作家会議に、フランスの作家たちを引率して行った。参加者は、「ジュ・スィ・パルトゥ」編集長ロベール・ブラジヤック、『新フランス評論(NRF)』編集長ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル、グラッセ社のアンドレ・フレニョーのほかに、フランソワ・モーリヤックの友人でありながらフランス人民党の政治局員でNRFの批評家だったラモン・フェルナンデス、アカデミー会員で、42年からピエール・ラヴァル内閣で国民教育相を務め、反ボルシェヴィキ義勇軍団(41年夏以降ロシア戦線で戦うフランスの有志たちの軍団で、ドイツの軍服に身を包んでいた)と民兵隊(Milice)を支持することになるアベル・ボナール、そして、ジャック・シャルドンヌとマルセル・ジュアンドーである。

 このうち、ジュアンドーとボナールは、当初予定されていたマルセル・アルランとポール・モランの代わりに参加した。このような会議は文学に限らず、美術や音楽、映画についても同種の会合がほぼ同時期にドイツ領内で開かれ、たとえばリュシアン・ルバテなどは、ウィーンで催された「モーツァルト祭」に出席している。


 ところで、この顔触れを見ると、ブラジヤックやドリュのように明確にファシズムを選んでいた作家に加えて、さほど政治的とは思われていない作家も招かれたことがわかる。ジュアンドーは、反ユダヤ主義者だったがファシストではなかったし、そもそもこの旅行への参加を渋っていた。シャルドンヌにいたっては、それまで政治的な事柄に無縁と思われていたにもかかわらず、ドイツによる占領が始まるや政治的発言を繰り返して、物議を醸した作家である。


 彼らにこの旅行への参加を促したヘラーは、「フランス文化の発展を助長し、ドイツ文化と他のヨーロッパ諸国の文化との出合いの場を広げよう」という意図を抱いていた(
ゲルハルト・ヘラー『占領下のパリ文化人』大久保敏彦訳、白水社。シャルドンヌ、ジュアンドー、フェルナンデスの3人は、ヘラーに引き連れられて、会議の前にハイデルベルクやウィーンなどドイツ領内を周遊し、ゲッペルスをベルリンに訪ねた。他の4名は後発組として直接ワイマール入りし、帰途ベルリンに立ち寄り、そこでドイツのために働くフランス人労働者たちや彫刻家アルノ・ブレーカーを訪問している。

 「来るべきヨーロッパにおける文学」がテーマとなったこの会議には、枢軸国やドイツの占領国、および中立国も含めて
14カ国から、総勢31人の作家が集い、なかにはフィンランドを代表する詩人ヴェイッコ・アンテロ・コスケンニエミの姿も見られた。会議は、ヨーロッパ文明を共産主義からいかに守るかという開会の辞で始まった。参加者はその後ゲーテの家を訪ね、ドイツの作家ハンス・カロッサを長とするヨーロッパ作家連合が発足して数日間の会議は幕を閉じた。

 会議を通じて、フランスからの参加者の多くは、今やフランスではなくドイツがヨーロッパ文化を担う可能性をもつという事態に忸怩たるものを感じながらも、ドイツによる「新秩序」に感銘を受けたのだった。


 そしてこの旅行はたちまち、作家の対独協力のシンボルと見なされるようになる。事実、彼らは帰国後、相次いでワイマール旅行について文章を発表し、ヘラーの友好的な回想とは裏腹に、「フランスは、臆病な待機主義と手を切って、たとえ自国の労働者を提供するだけにせよ、ドイツが対ボルシェヴィスム十字軍において身を削っている素晴らしき行為に参加すべきだ」という、ナチスの代弁者のごとき主張を繰り広げるのだった(
François Dufay, Le voyage d’automne, Plon

 こうして、
44年秋には、ポール・エリュアールによって、この旅行に参加した作家全員(ただしフェルナンデスはその年の夏に死去)の逮捕が要求されることになる。しかも、後発組がパリに戻った際の報道写真そのものが、対独協力の象徴としてしばしば複製されることになった。

 ワイマールに赴いた作家たちが、この旅行がもつであろう意味を出発前に予想できなかったとは考えにくい。確かに、会議に参加することで、彼らの作品はドイツ語に訳されて出版されることになっていたし、収容所に捉えられているフランス人の釈放という交換条件がちらつかされた可能性もある。だがそれにしても、後年のヘラーの言葉を借りれば、「当時としては重大な政治的過失」であるにもかかわらず、シャルドンヌやドリュ、フレニョーは、アンドレ・テリーヴとジョルジュ・ブロンとともに、
42年に開かれた第2回ヨーロッパ作家会議にも参加する道を選んだのだった。

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呪われた作家たち6

 第二次大戦中のフランスでもっとも読まれた書物の一つであるリュシアン・ルバテの『残骸』は、次のように書き始められている。「フランスは残骸の山だ。事物、教養、制度の残骸の。これらは偶発的な、特異な天変地異の産物などではない。本書はこれらの巨大な残骸の山を積み上げた長期の地滑り、相次ぐ崩壊の見聞記である」リュシアン・ルバテ『残骸』池部雅英訳、国書刊行会。本書はこのように、フランスの弱体化や第二次大戦の敗北に対する糾弾の書であり、1934年から41年のフランスを生きたルバテの自伝でもある。

 1903
年に生まれたルバテは、1929年頃から「アクシオン・フランセーズ」紙の音楽文化欄を担当することでジャーナリストとしての活動を始め、戦後は、『一つの音楽史』という浩瀚な書物を発表している。1930年代、彼は、次第にシャルル・モーラスのファシズム革命への及び腰に飽き足らなくなり、より行動志向の強い「ジュ・スィ・パルトゥ」紙に活動の重点を移し、33年以降は、ドイツからフランスへのユダヤ移民が増えるにつれて反ユダヤ主義に傾倒していく。だが、彼の政治姿勢は、「ジュ・スィ・パルトゥ」紙で一緒に働いていたロベール・ブラジヤックと、反民主主義の態度は深く共有しながらも、本質的には異なっていた。ファシズムを詩情の発露として考えていたブラジヤックに対して、ルバテは、貴族趣味のアナキストだったのである。自分の思想は揺らいでいないとする彼は、あらゆるものを弾劾し、とりわけ身近だった人々に対して変節したと筆鋒鋭く批判した。

 とはいうものの、それは無鉄砲な悪口雑言だったわけではない。ルバテは、
1946年、対独協力者に対する裁判の最終弁論において、「私は自分がどうなろうと知ったことではない。一人の囚人にすぎないのだから。けれども、私は裏切り者ではない。ここで私は自分の名誉を守っておきたい」と発言する(Pascal Ifri, Rebatet, Pardès

 対独協力者たちは異口同音にこのように述べていた。すなわち、自分は祖国に対する反逆者なのではなく、本来あるべき祖国を実現せんがために、現実の祖国を倒そうとしたのだ、と。彼らにとって、民主主義下で、スキャンダルに塗れるなどして政府が目まぐるしく変わり、内政においても外交においても一貫性を欠いていた
1930年代のフランスは、祖国の真の姿ではなかった。彼らからすれば、フランスの脆弱さの原因は、共和制、およびその体制下で一時期にせよ権力を握ったレオン・ブルムたちユダヤ人にあった。その国家首班たちこそ、再軍備を進めたドイツを叩く機会を逸しながらも、戦争を引き起こした揚句にフランスを敗北に導いたというのだ。つまり第二次大戦中、ドイツに協力した人々のなかには、少なからぬ数の反戦・厭戦家がいたのである。

 ルバテはもともと軍隊というものを好み、従軍もしたが、
30年代を振り返って、「我々の過ちは我々が知的な平和主義者だったことだ」と記している。彼の目には、この戦争はユダヤとアングロ・サクソンが仕掛けたものにほかならなかった。それらの勢力からフランスを解放して新秩序を確立せねばならず、そのためには、ユダヤ人を文字通り一掃し、独ソ不可侵条約を破って共産主義に対する全面的な戦いを始めたドイツにならって、フランスを立て直す必要がある。

 そのように考えるルバテが実際に強硬な対独協力者となったのは、
19416月にドイツ軍がソ連に侵攻してからであり、42年に刊行された『残骸』には、「チャーチル・ルーズベルト・スターリンという嘘のような、えげつない『トロイカ』を繋いだのはユダヤ人だ。こんなものが成功したら、それこそ西欧の崩壊だ」といったユダヤと英米、共産主義に対する呪詛と、「私が素晴らしいと思うのは、ドイツがドイツであることではなく、ヒトラーを容認したことだ。ドイツが他のどの国よりも鮮やかに政治秩序を得たことに拍手を送りたい。その秩序の中に私の希望のすべてがある」というナチズム礼賛が氾濫しているのだった(リュシアン・ルバテ、前掲書)。

 しばらくヴィシーで働いた後、その弱腰に幻滅したルバテは、「フランス政府はヴィシーでくたばるか、さもなくば生きる意欲を発見し、そしてすでに希望を選択した人々と都で合流するかだ」と述べてヴィシーと決別し、
41年秋に占領下のパリへ赴くだけでなく、枢軸国側の配色がきわめて濃厚となった19441月においてなお、国民社会主義体制をフランスに樹立すべしと唱えたのだ。福田和也が記しているように、「あらゆる伝統的価値、既存の秩序を憎悪するルバテにとって、[ペタン]元帥とかれのかかげる家庭や友愛を基本とする政策は、古めかしい噴飯ものとか思えず、実現の可能性もないファシズム国家をかたにあらゆるエスタブリッシュメントに対する罵倒を続けることがかれの対独協力の本質であり、わが身と国家の将来に配慮することなく、この崩壊の愉悦に最後まで忠実であろうとしていた」という点において(福田和也『奇妙な廃墟』ちくま学芸文庫)、第三共和制のみならずヴィシーの廃墟を喜ぶまでに一貫していたルバテの振る舞いは、対独協力の論理の一つの極限なのだった。

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呪われた作家たち5

 パトリック・モディアノが脚本に参加したルイ・マル監督の映画『ルシアンの青春』は、フランス全土がドイツに占領された第二次大戦末期のフランス南西部で、レジスタンスに関心を抱きながらも、まったくの偶然からゲシュタポの手先となった若者の姿を描いている。

 舞台は、
1936年の人民戦線内閣時代に解雇された元警部が、第三共和制に復讐せんとばかりにドイツに協力している地元の警察署。そこでは、ドイツ軍・警察に率先して協力する女性が、ユダヤ人やレジスタンスなどを密告するフランス人たちの手紙の多さに辟易するシーンが見られる。曰く、「1日に約200通」の手紙が届くなんて「まるで熱病」のようだわ、と。

 当時のフランスにおいて、密告は、不幸なことに、それほど珍しいことではなかったようだ。たとえば、ガリマール社でピエール・ドリュ・ラ・ロシェルに『新フランス評論』の編集を任せる傍ら、レジスタンスの出版活動に勤しんでいたジャン・ポーランは、友人であるマルセル・ジュアンドーの妻エリーズに密告されている。ポーランは、ジュアンドーの標榜していた反ユダヤ主義について、「ユダヤ人に対する認識では君に賛成できなかった。人を判断するのにその人の精神以外のものに頼るなんて不当だと思うのだよ」
などと述べて不快感は示していたものの(Jean Paulhan, Choix de lettres, tome II, Gallimard)、その文才を買っており、親交が深かっただけに衝撃は大きく、後に、ジュアンドーからの招待を断る理由として、「私は、君の方から、「家に来るなら…時頃にしてくれ。妻は確実に不在にしているから」と言ってくれるのを待っていた節もあるんだ」との手紙を送っている(ibid.)。とはいえ、ポーランの場合、検閲官のゲルハルト・ヘラ―が捜索についてあらかじめ知らせてくれたおかげで難を逃れられた。

 しかし、ユダヤ人や反ドイツ勢力の人々の多くにとって、密告されることはすなわち、パリ北東部のドランシー中継収容所、ひいてはそこからアウシュヴィッツに送られることを意味していたのである。


 確かに、密告という破廉恥な行為にも、種々の側面があった。何より、密告者にはしばしば報奨金が払われたし、私怨を晴らすために密告がなされる場合もあった。なるほど、行政からの奨励に盲目的に従って行われた場合もあり、そうした手紙の多くは実際、「善良なるフランス人として」、「愛国心あふれる市民として」、「良きカトリック教徒として」などと書き始められている
André Halimi, La délation sous l’Occupation, L'Harmattan)。

 だが、密告は金銭欲や歪んだ義務感からなされただけではない。ピエール・アスリーヌは、とうてい断れないような交換条件をフランス警察から巧妙に切り出されて、ついに親しいユダヤ人を告発して強制収容所に送ってしまった女性の悲劇を、『密告』(白井成雄訳、作品社)という物語で描いている。


 言うまでもなく、当時のフランス人たちがみな、密告という気の滅入るような挙に出たり、それに怯えたりしていたわけでない。しかしながら、当時のフランスでの一般的な生活は、物資が困窮し配給が滞ったり闇市で物価が高騰したりするなど、けっして安逸なものではなかったし(たとえば、
1941年頃、ロレーヌ地方の8人家族の家庭は、卵一個2,5フラン、鶏一羽100フランする時勢に一月850フランで生活しなければならなかったという(Dominique Veillon, Vivre et survivre en France 1939-1947, Payot、事態は1944年夏にパリが解放されてからも一向に改善されなかった

 そして、社会生活において「多くのフランス人にな
じみがあったのは、レジスタンスでもコラボラシオンでもなくて沈黙であった」のである(渡辺和行『ナチ占領下のフランス』講談社選書メチエ)。

 出版物に検閲が課されて表現の自由が厳しく制限されるばかりか、読者である市井の人々にもまた沈黙が重くのしかかっていた時代。そのようなときにも、ベストセラーとなる書物があった。フランス共和制に対してのみならず、ヴィシー派に立ったアクシオン・フランセーズの弱腰に対してまでの罵詈雑言や呪詛と、反ユダヤ主義やナチズムへの誰憚ることのない独善的な称賛とに満ちた、リュシアン・ルバテの大著、『残骸』がそれである(池部雅英訳、国書刊行会)。

 今日ではまるで顧みられなくなったこの書は、ロベール・ブラジヤックやルイ=フェルディナン・セリーヌの書物を刊行していたドノエル社から
1942年に出版されるや、初版の2万部がわずか3週間で売り切れ、1944年まで増刷を重ねて、最終的には約10万部(それも用紙の配給が途絶えたためこれ以上は印刷できなかったのだが)が売れるなど、文字通り電撃的な成功を収めたのである。

 パリのリヴォリ通りに鍵十字の旗が翻っていたこの
時代、人々は、息詰まるような社会のなかで『残骸』をむさぼるように読んだわけだが、それにしても、彼らは一体そこに何を見出したのだろうか。

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呪われた作家たち4

 1945119日、対独協力者を裁く裁判において、被告に死刑の判決が言い渡された瞬間、「恥だ!」との傍聴席からの興奮した声に、被告席から「これは名誉だ!」との声が上がる。冷静なその声の主はロベール・ブラジヤック。裁判はわずか6時間ほどで結審した

 「ジュ・スィ・パルトゥ〔「私は神出鬼没」の意〕」紙のシャルル・レスカら多くの対独協力者は、「ジュ・スィ・パルティ〔「私は逃げ出した」の意〕」などと揶揄されながら、
1944年、独軍の退却に伴ってドイツに亡命し、戦争終結まで、フランスにファシズム体制を築くことを唱え続けた。だが、ブラジヤックはフランスから逃げなかった。彼は、「「ジュ・スィ・パルトゥ」紙はこの4年間、読者に対して、たとえ連合国軍がフランスに上陸したとしても、命を惜しんでドイツに亡命したりすべきではないとくりかえし主張してきたのだ。[…]わたし自身は、その主張のとおりパリにとどまる決心をしていたが、そのことで後悔はしていなかった」という自分の論理を最期まで誠実に貫いたのだった(ロベール・ブラジヤック『われらの戦前/フレーヌ獄中の手記』高井道夫訳、国書刊行会)。彼は、母が自分の身代りとして逮捕されたことを知って出頭したのである。

 対独協力者に対する裁判は、パリ解放後の
194410月からド・ゴール派の主導で進められたが、陪審員は、共産党員の作成するレジスタンス一覧の市民から抽選で決められた。フランス人がフランス人を反フランス勢力として裁くこの裁判は奇妙だった。なぜなら、対独協力者の裁判に携わる法曹関係者の多くは、第三共和政から司法に携わり、ヴィシー時代にはフィリップ・ペタンに忠誠の宣誓をしていたからだ。44年秋にはド・ゴールがヴィシー政府を非合法だったと宣言したからなおさらである。そこで、対独協力者のヴィシー時代を裁く裁判の正当性は、ヴィシー政府の歴史を無視して、第三共和政の刑法第75条の外患罪に置かれたのだった。

 そんなブラジヤック裁判の検事となったのは、第三共和政時代から美声と雄弁をもって鳴らしたマルセル・ルブール。弁護士は、
30年代にブラジヤックも参加していた反ユダヤ主義色の濃い「コンバ」紙上で、数人のユダヤ人を秘書として登用する弁護士として攻撃されながらも、後にブラジヤックのみならずペタンの弁護人を務めることになるジャック・イゾルニ。この二人は奇遇にも、隣人同士で友人でもあった。

 戦中のブラジヤックの文章のうち今日の読者の注意を引くのは、むしろ激越なその反ユダヤ主義である。彼は大戦中「ユダヤ人は皆まとめて隔離せねばならず、チビどもも残すべきではない」
などと記し、ユダヤ人の殲滅(移送)を肯定していたのだから(Robert Brasillach, Oeuvres complètes, tome XII, Le club de l’honnête homme)。しかも「ジュ・スィ・パルトゥ」紙は大戦中、平均して毎週15万から30万部という占領地域ではかなり大きな発行部数を誇っていたのであり、その影響力は小さくなかった

 とはいえ、この裁判の性質上、彼の罪状は対敵通牒だった。イゾルニは暫定政府下での裁判の正当性に疑念を呈し、ブラジヤックは「フランスの対独協力者たちは祖国を荒らすような人たちではなく、祖国が荒らされるのを防ごうとしたのです」と、自身の対独協力をモラルの点から自己弁護する。

 しかし、ブラジヤックが、誰に強いられたわけでもなく自らの意思で、第三共和政を憎むあまり、「もし祖国の敵のなかで誰かを選べるならば[…]我々はためらうことなく選ぶだろう。マンデルとレイノーこそ最初に絞首刑に処すべきである」
などとその首脳部の死を要求し(ibid.)、ドイツ文化のプロパガンダの場となったリーヴ・ゴーシュ書店の経営に携わり、フランスの作家代表団の一員としてナチの組織したワイマール旅行に加わった点に変わりはなかった。そして、人類に対する罪が創設されている今日でこそしばしば取り上げられる先の反ユダヤ主義の言説とて、外患罪の観点から、ブラジヤックによる同胞の密告を示唆する証拠として取り沙汰されたにすぎない。あくまでも「粛清の目的は、国を再建し、国の尊厳を取り戻すことにあったのである」(Alice Kaplan, Intelligence avec l’ennemi, trad. de l'anglais par Bruno Poncharal, Gallimard

 当時の人々にとって、ブラジヤック裁判の最大の衝撃は、優れた作家の文筆活動を政治的に裁くという点にあった。他の対独協力者の場合とは異なって、彼の裁判がフランスの知識人にとって転換点となったのは、文学者の社会的責任という問いが各作家に突きつけられたからである。

 ブラジヤックは、戦争がまだ続いている最中の
194526日、判決から3週間足らずで死刑に処された。彼の才能と知性ゆえに、ド・ゴールは各方面からの助命嘆願を退けたのだ。この処刑以後、政府は作家の処刑に慎重になった。たとえば、「ジュ・スィ・パルトゥ」紙に最後まで残ったリュシアン・ルバテは、1946年に死刑判決を受けるも、すでに粛清を厭う世論もあって執行を免れている。

 ブラジヤック裁判以降、フランス文学は、作家の社会的責任を主張する実存主義の隆盛を迎え、次第に彼とその時代を闇に葬りながら、新たな出発を迎えることになるのである。

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呪われた作家たち3

 「フランスのファシズムは政治的イデオロギーではなかった。[]フランスのファシズムとはひとつの精神なのだ。[…]これは友愛の精神だ。わたしたちはこの精神を、すべてのフランス国民を結びつける友愛の精神にまで高めたいと願ったのだった」(ロベール・ブラジヤック『われらの戦前/フレーヌ獄中の手記』高井道夫訳、国書刊行会。対独協力作家と言えば必ず名の挙がるブラジヤックは、召集を受けて前線に赴くが、ドイツの捕虜収容所に捕えられていた1939年から40年にこう書き記した。

 1909
年、ペルピニャンに生まれたブラジヤックは、高等師範学校在学中の1930年、『ルヴュ・フランセーズ』に文芸評論を発表して以降30年代を通じて、『アクシオン・フランセーズ』の文芸欄を担当し、『映画史』『コルネイユ』などの評論のほか、『時の移ろうまま』などの小説を著わす。要するに、彼は高い教養を備えた作家だった。

 そんな彼の代表作『七彩』は、
1930年代のパリを舞台にした物語。青年パトリスと少女カトリーヌが惹かれ合いながらも離れ、青年はフランスを去り、少女はやがて別の男と結婚する。しかし互いに相手のことを忘れられず、10年後に再会すると悲劇が襲うことになる……。「物語」「手紙」「日記」など七つの文体を使い分ける趣向を凝らして話は進み、当時の西欧の政治状況も詳細に語られるので、30年代の若者の生活にかんする一つの資料としても読むことができる。フランス文学の伝統ともいえる心理分析とともに、パリの公園や街並みが美しく描写される本書は、とても瑞々しい恋愛物語である。

 ブラジヤックの描く青春は麗しい。しかし、その青春はあくまでも、異質な要素を排除することで成り立つ、純潔で純血めいた理想でもあった。反ユダヤ主義は戦前、種々の形でフランスに広く存在していたとはいえ、ブラジヤックはすでに「フランス人は生まれつきユダヤ人が嫌いだ」などと強い反ユダヤ主義を表明していた。

 そして彼は、遅れてきた世代として自己規定する。「
僕らの時代の30歳は戦争と未来の狭間で押しつぶされているため、独得のカラーを持っている。たぶん、将来、人々はこの歳がすこぶる伝統的な均衡を失っていたことや、またその特有の不安のせいで18歳に似通っていたことに驚くだろう。先の戦争は現代世界にとって熾烈な激動の時であったため、たとえ僅かでも戦前を生きた人ならば、その衝撃がいつまでも消え去らないのかもしれない。その後に生まれた人にはもっと自信がある」(ロベール・ブラジヤック『七彩』池部雅英訳、国書刊行会。このように『七彩』は、ブラジヤックが、文筆家であるには最初から否応なしに政治的にならざるをえなかった世代の作家であることを示している。

 ブラジヤックにとって、ファシズムは生きる歓びの具現にほかならず、
俗物から切り離され、同士愛に支えられた青春を取り戻そうとする衝動だった。彼は共和政を拒絶し、イタリアとスペインのファシズム勢力に好意を示していたが、彼からすれば、言わばファシズムそれ自体が雄々しくも感傷的な運動なのだ。それゆえに彼は、青春の自由を圧殺する戦争に反対していたのである。彼のファシズムは、共同体創設を大衆の祭典に仕立てるような政治の審美化ですらなく、ホモソーシャルでボヘミアン的生活を共にする友愛の美学のなかでのみ捉えられる政治的感情だった。

 このファシズムに基づいて、ブラジヤックは対独協力にはしる。
1941年春に虜囚を解かれるや、戦前からファシズムを鮮明に打ち出していた「ジュ・スィ・パルトゥ」紙の編集長となり、「私はつまるところ[…]友人たちを後にしてきた。彼らはけっして私から別れないし、その思い出は爾来、自由の身となった私からいっときも離れることなく私に重なっている。[…]私は彼らに向けて書こうと思う」と述べてRobert Brasillach, Oeuvres complètes, tome XII, Le club de l’honnête homme、捕虜のままの戦友たちへの同士愛から「尊厳ある対独協力」を訴え、開戦しながら敗北した第三共和政を呪いつつ、その崩壊を言祝ぐことになるのだ。

 彼は、西欧文明を守り祖国を再建させるべく、戦前からの主張を次第に激化させ、ユダヤ、共和主義、ド・ゴール派、共産主義、アングロ・サクソンの各勢力に対し、そしてときにはヴィシー政権の無気力に対してまで、筆鋒鋭い論説を発表し続ける。大戦末期には対独協力に幻滅し
43年にはもはやドイツの勝利を謳うことはなくなるものの、彼は自らの選択を最期まで後悔しなかった。福田和也は「なによりもかれにとって耐えがたい公衆の沈黙と退廃、待機主義と敗北主義を打ち払って、澄んだ空気を呼吸しようとしたのである」と記しているが(福田和也『奇妙な廃墟』ちくま学芸文庫)、ブラジヤックの儚く詩的で無責任な青春のファシズムは、おぞましい歴史的現実に力を貸したのだった。

 ブラジヤックは、おのれの美学のもたらした政治的帰結を引き受けたかに見える。彼は、対独協力者に対する裁判において死刑の判決を受け、粛々と処刑されたからだ。だが彼は、自らの発言の結果を本当に引き受けたのだろうか。

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呪われた作家たち2

 「フランスには三つの権力がある。共産主義、大銀行、それにNRFだ」。第二次大戦開戦時の駐仏ドイツ大使オットー・アベッツはそう述べたと伝えられる。フランスにおけるドイツの相手は、政治、経済、そして文化にわたると示されたわけである。

 1940
5月まで、ドイツ軍とフランス軍は戦火を交えない「奇妙な戦争」が続くものの、すでに前年の9月、フランスはドイツに対して宣戦布告していた。戦時下においては一般に表現の自由が厳しく制限される。当時のフランスにおいても国防を損なう類の出版物が情報局の検閲の対象とされたが、406月にフランスがドイツと講和を結ぶに至って、今度は反ドイツ的な刊行物、およびユダヤ人やドイツから亡命した作家の著作が発禁措置を受けることになった。

 ドイツの対仏占領政策が当初、強硬な制圧というよりはむしろフランスからの自発的な協力に礎を置こうとしたのと同様に、外務省のドイツ研究所と宣伝省の宣伝梯隊が競合しながら占領地帯において進めた検閲もまた、形式上はフランスの出版界が自発的に行う形が取られた。ドイツ当局が、紙の配給権を握ることで実質的に出版物の内容をコントロールしていたものの、
4010月に初版が発布され大戦中に2回改訂される禁書リスト「オットー・リスト」の前文には、「フランスの出版社は、次のリストならびに将来公表されるかもしれぬ同種のリストに記載される作品を、書店と販売部から引き上げることを決定した。[…]ドイツ当局は、フランスの出版社の自主的行動を喜んで認め、自らも必要な措置を講じた」と記されている。

 パリを逃れて自由地帯に散らばった出版社は少なくなかったが、ヴィシー政府下でも、
4010月からユダヤ人が出版業から排除されるなど、親独的政策が打ち出されていたし、「リヨンだろうとアルジェだろうと、フランスの知的、芸術的首都であるパリ以外の場所で“現われ・本を出し”たところでどんな意味があっただろうか」との思いが、作家や出版者の脳裏によぎっていた(ピエール・アスリーヌ『ガストン・ガリマール』天野恒雄訳、みすず書房)。

しかしながら検閲によって親独的な出版物がすべて許されたわけではないから、事態はいささか込み入っている。ドイツから見れば、フランスはドイツに協力すべきではあれ先んじてはならないがゆえに、ヒトラーやムッソリーニといった指導者の著作はフランスでは禁書とされた。また、ローゼンベルク機関の文化局を指揮していたベルンハルト・パイルが、逆に、推奨すべきフランス文学を論じた『不死鳥か灰か』では、当時フランスで大いに読まれていたセリーヌについてはその文体に対して大きな留保が示され、ヴィシー政権のイデオローグとなったシャルル・モーラスのナショナリズムには、「ヨーロッパ新秩序」に背くものとして不信の目が向けられていた(Bernhard Payr, Phénix ou cendre ?, trad. de l’allemand par Gérard Loiseaux, in La littérature de la défaite et de la collaboration, Fayard)。

 しかも、文学に造詣が深かったことで
40年末から検閲官に任命されたゲルハルト・ヘラーは、仕事を幸いとばかりにフランス文学を読み漁り、パリの文学サロンを渡り歩きながら、ポーランをはじめとして、マルセル・ジュアンドー、ドリュ、マルセル・アルランら同時代の作家たちと交流し、ブラックやピカソ、フォートリエといった芸術家たちの知己を得たのである。彼は、回想録でポーランを「わが師」と呼び、「私はすべてを彼から学んだ。私にとって彼は厳しく、辛辣で、皮肉っぽいと同時に優しい師であった」とまで記すに至る(ゲルハルト・ヘラー『占領下のパリ文化人』大久保敏彦訳、白水社)。若干都合の良すぎる回想ではあるが、このような人物が検閲官だったことは、フランスの作家たちにとっては幸運だったのだろうか。

 けれども、彼は、回想録の表紙の写真に見られるようにやはり検閲官だったのであり、実際、
41年春の時点でフランスの出版社は平均して戦前の3分の1程度の量の紙しか受け取られなかった。そうなると当然ながら出版社間の競争が生じる。ドノエル社は、対独協力作家リュシアン・ルバテの著作を刊行しながら共産党員の作家エルザ・トリオレの作品を出版し、グラッセ社は、占領軍がフランス文化を尊重すると考えて対独協力に踏み出し、ガリマール社は、ファシズムに傾倒したドリュをNRFの編集長に据え、二枚舌を用いて占領軍と折り合いをつけながら出版活動を行っていたのである。

 こうして、第二次大戦中のパリの出版界を舞台にして、ドイツ軍当局と作家たちだけではなく、出版社をも巻き込んで、虚々実々の駆け引きが繰り広げられていたのだった。

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呪われた作家たち1

コンピューターのファイルを整理していたら、数年前、対独協力作家をめぐって『ふらんす』(白水社)に連載した文章が出てきた。すでにかなり以前のもので懐かしさもあるけれど、何より、きな臭い時代になってきたことから、少しずつでも再掲しておこうと思う(一部を修正)。コラボを見れば、「義」なるものがどれほど両義的かということや、いつの間にかとんでもない事態やのっぴきならぬ状況が生じることなどが、よく分かるだろう思う。

(2014.9.12追記 当初は「タブー視された作家たち」とのタイトルで、『ふらんす』2009年4月号~2010年3月号に連載されたものです。一部改変しています)

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 今日ではほとんど顧みられないが、その当時は広く読まれた作家というのが確かに存在する。たとえば、後に脚光を浴びることになるジョルジュ・バタイユは第二次大戦中、『無神学大全』を発表していたが、その当時、良きにつけ悪しきにつけはるかに注目されていたのは、『ジュ・スィ・パルトゥ』紙で過激な反ユダヤ主義を表明していた作家ロベール・ブラジヤックの発言だったに違いない。

いわゆる対独協力作家(コラボ)とは、呪われた作家たちである。彼らの反フランス共和国的文筆活動をはじめとして、彼らにまつわるすべての事柄――ドイツ軍兵士と懇ろになったフランス人女性が公衆の面前で丸刈りにされたことなど――が、第二次大戦後のフランスにおいては一種のタブーとされてきた。1947年末にモーリス・ブランショは、「もし文学が恐怖政治と呼ばれてきたとするなら、それは、文学が理想として掲げているのがこの歴史的瞬間だからだ」と記しているが(Maurice Blanchot, « Le règne animal de l’esprit », Critique, numéro 18, nov. 19471944年夏のパリ解放から3年あまり、「恐怖政治」との言葉は、当時の人々にとって、大戦中の大量殺戮の悲劇と同時に、対独協力者に対する粛清の嵐をも想起させただろう。実際、それは処刑を伴う恐怖政治だったのだから。1930年代には、ともにシャルル・モーラスの影響を強く受けていたことでブランショと遠からぬ存在だったブラジヤックは、1945年、対独協力者に対する裁判において「対敵通牒」の咎で死刑を宣告され、処刑されたのである。彼は、戦前から反民主主義と反ユダヤ主義を鮮明に打ち出し、戦争中はいったん捕虜となるも、釈放されるやパリに留まり、親ナチズムというよりは反共産主義と反共和主義の立場から、文筆家として対独協力に身を投じ、大戦末期には対独協力に幻滅したものの、自身の最期の瞬間までそれをいささかも後悔しなかった。

 ただし、彼の例はまだしも整理しやすいかもしれない。当時の状況をもう少し仔細に眺めると、大戦中からパリ解放直後にかけて、フランスに留まっていた作家たちの多くは、かなりきわどい状況に置かれていたかに見える。そもそも、大戦中から大戦直後にかけてのフランスは、一瞬にして善悪の価値基準が入れ替わる状態だった。1940年にはそれまで反愛国的とされた親独的立場が愛国的姿勢を意味するようになり、その数年後には、それまで親ヴィシー的とされてきたことが祖国に対する裏切りを意味することになったからだ。しかも、一口に対独協力といっても、地域や時期によって温度差が大きく、歴史家のジャン・ドフラーヌは、「ヴィシーの政権担当者たちが戦勝国のさまざまな要求を軽減しようとして対独協力を選らんだのにたいして、パリの政治屋たちは本気でドイツの札に賭けたのである」と指摘している(ジャン・ドフラーヌ『対独協力の歴史』大久保敏彦・松本真一郎訳、文庫クセジュ

 そのような状況下で、対独レジスタンスの姿勢を打ち出すこともなく、他国へ戦火を逃れることもなく、南であれ北であれともかくフランスに残って創作を続けた作家も存在していたし、ドイツに対するフランスの敗北を自分の理念を実現するチャンスだと捉えた作家もいたのである。彼らは、その時期、いったいどのように文学に打ち込んだのか。


 アンリ・ド・モンテルランやジャン・ジオノのように、パリ解放直後には、ルイ・アラゴンらの率いる共産党系レジスタンス色の強い全国作家委員会(
CNE)によって、対独協力的だとして「望ましくない書物のリスト」に加えられた作家が、後年、大作家の証であるプレイヤード叢書に加えられることもある。あるいは、アランの弟子として徹底した平和主義を貫いたがゆえにドイツとの講和に賛成し、占領下のパリにおいても、それまでと変わらぬ執筆や教育活動を行なったがゆえに、戦後には、本人の気づかぬうちに共産党から対独協力者として名指しされ、公職を追放されたクロード・ジャメのような人物もいる。皆がみな、ブラジヤックのように、自分の対独協力をしかと認識していたわけでも、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルのように断固としてファシズムに傾倒したわけでも、いったい誰がコラボとして粛清される側に立つのか、あるいはレジスタンスとして粛清する側に立つのか、はっきりしていたわけでもなかった。

CNEの中心人物でありながら、CNEによる対独協力作家たちのリストアップに異議を唱えてその委員会を辞めるに至ったジャン・ポーランは、当時のフランスの法律に則って行動したはずの人々が、対敵通牒を図った者として処罰の対象となることに疑義を呈していた。大戦中にフランスという国を体現していたのがほかならぬペタン元帥だった以上、レジスタンスの人々には、国家に対する反逆者として対独協力者を裁く権利はないだろう、しかも作家には「見誤る権利」があるのだから、というのである(Jean Paulhan, Œuvres Complètes, tome V, Cercle du Livre Précieux。フランソワ・モーリヤックは、ブラジヤックの助命嘆願を作家たちにはたらきかけ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「いかなる面においても彼との連帯を感じない」として署名を拒否したものの、アルベール・カミュは、ブラジヤックについて「心の底から軽蔑する」と述べながらも署名したのだった……

  

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