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呪われた作家たち1

コンピューターのファイルを整理していたら、数年前、対独協力作家をめぐって『ふらんす』(白水社)に連載した文章が出てきた。すでにかなり以前のもので懐かしさもあるけれど、何より、きな臭い時代になってきたことから、少しずつでも再掲しておこうと思う(一部を修正)。コラボを見れば、「義」なるものがどれほど両義的かということや、いつの間にかとんでもない事態やのっぴきならぬ状況が生じることなどが、よく分かるだろう思う。

(2014.9.12追記 当初は「タブー視された作家たち」とのタイトルで、『ふらんす』2009年4月号~2010年3月号に連載されたものです。一部改変しています)

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 今日ではほとんど顧みられないが、その当時は広く読まれた作家というのが確かに存在する。たとえば、後に脚光を浴びることになるジョルジュ・バタイユは第二次大戦中、『無神学大全』を発表していたが、その当時、良きにつけ悪しきにつけはるかに注目されていたのは、『ジュ・スィ・パルトゥ』紙で過激な反ユダヤ主義を表明していた作家ロベール・ブラジヤックの発言だったに違いない。

いわゆる対独協力作家(コラボ)とは、呪われた作家たちである。彼らの反フランス共和国的文筆活動をはじめとして、彼らにまつわるすべての事柄――ドイツ軍兵士と懇ろになったフランス人女性が公衆の面前で丸刈りにされたことなど――が、第二次大戦後のフランスにおいては一種のタブーとされてきた。1947年末にモーリス・ブランショは、「もし文学が恐怖政治と呼ばれてきたとするなら、それは、文学が理想として掲げているのがこの歴史的瞬間だからだ」と記しているが(Maurice Blanchot, « Le règne animal de l’esprit », Critique, numéro 18, nov. 19471944年夏のパリ解放から3年あまり、「恐怖政治」との言葉は、当時の人々にとって、大戦中の大量殺戮の悲劇と同時に、対独協力者に対する粛清の嵐をも想起させただろう。実際、それは処刑を伴う恐怖政治だったのだから。1930年代には、ともにシャルル・モーラスの影響を強く受けていたことでブランショと遠からぬ存在だったブラジヤックは、1945年、対独協力者に対する裁判において「対敵通牒」の咎で死刑を宣告され、処刑されたのである。彼は、戦前から反民主主義と反ユダヤ主義を鮮明に打ち出し、戦争中はいったん捕虜となるも、釈放されるやパリに留まり、親ナチズムというよりは反共産主義と反共和主義の立場から、文筆家として対独協力に身を投じ、大戦末期には対独協力に幻滅したものの、自身の最期の瞬間までそれをいささかも後悔しなかった。

 ただし、彼の例はまだしも整理しやすいかもしれない。当時の状況をもう少し仔細に眺めると、大戦中からパリ解放直後にかけて、フランスに留まっていた作家たちの多くは、かなりきわどい状況に置かれていたかに見える。そもそも、大戦中から大戦直後にかけてのフランスは、一瞬にして善悪の価値基準が入れ替わる状態だった。1940年にはそれまで反愛国的とされた親独的立場が愛国的姿勢を意味するようになり、その数年後には、それまで親ヴィシー的とされてきたことが祖国に対する裏切りを意味することになったからだ。しかも、一口に対独協力といっても、地域や時期によって温度差が大きく、歴史家のジャン・ドフラーヌは、「ヴィシーの政権担当者たちが戦勝国のさまざまな要求を軽減しようとして対独協力を選らんだのにたいして、パリの政治屋たちは本気でドイツの札に賭けたのである」と指摘している(ジャン・ドフラーヌ『対独協力の歴史』大久保敏彦・松本真一郎訳、文庫クセジュ

 そのような状況下で、対独レジスタンスの姿勢を打ち出すこともなく、他国へ戦火を逃れることもなく、南であれ北であれともかくフランスに残って創作を続けた作家も存在していたし、ドイツに対するフランスの敗北を自分の理念を実現するチャンスだと捉えた作家もいたのである。彼らは、その時期、いったいどのように文学に打ち込んだのか。


 アンリ・ド・モンテルランやジャン・ジオノのように、パリ解放直後には、ルイ・アラゴンらの率いる共産党系レジスタンス色の強い全国作家委員会(
CNE)によって、対独協力的だとして「望ましくない書物のリスト」に加えられた作家が、後年、大作家の証であるプレイヤード叢書に加えられることもある。あるいは、アランの弟子として徹底した平和主義を貫いたがゆえにドイツとの講和に賛成し、占領下のパリにおいても、それまでと変わらぬ執筆や教育活動を行なったがゆえに、戦後には、本人の気づかぬうちに共産党から対独協力者として名指しされ、公職を追放されたクロード・ジャメのような人物もいる。皆がみな、ブラジヤックのように、自分の対独協力をしかと認識していたわけでも、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルのように断固としてファシズムに傾倒したわけでも、いったい誰がコラボとして粛清される側に立つのか、あるいはレジスタンスとして粛清する側に立つのか、はっきりしていたわけでもなかった。

CNEの中心人物でありながら、CNEによる対独協力作家たちのリストアップに異議を唱えてその委員会を辞めるに至ったジャン・ポーランは、当時のフランスの法律に則って行動したはずの人々が、対敵通牒を図った者として処罰の対象となることに疑義を呈していた。大戦中にフランスという国を体現していたのがほかならぬペタン元帥だった以上、レジスタンスの人々には、国家に対する反逆者として対独協力者を裁く権利はないだろう、しかも作家には「見誤る権利」があるのだから、というのである(Jean Paulhan, Œuvres Complètes, tome V, Cercle du Livre Précieux。フランソワ・モーリヤックは、ブラジヤックの助命嘆願を作家たちにはたらきかけ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは「いかなる面においても彼との連帯を感じない」として署名を拒否したものの、アルベール・カミュは、ブラジヤックについて「心の底から軽蔑する」と述べながらも署名したのだった……

  

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