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呪われた作家たち11

 「アルバンは意気揚々たるものがあった。彼は在校中も、希臘羅馬の精神を受けついで、婦女軽蔑を矜りとしていた」(アンリ・ド・モンテルラン『闘牛士』堀口大學訳、新潮文庫。フランス人青年がスペインで闘牛士として成長していく『闘牛士』には、このような言葉が読まれる。その作者、アンリ・ド・モンテルランは、1920年のデビュー時から、当時のフランス文学の一つの傾向だった感傷への傾向を厳しく批判し、雄々しさを追い求めていた。

 実際、彼の著作にはしばしば、激しい女性蔑視に加えて、行動と克己心の称揚が見られ、『闘牛士』では「愛の身振りにも増して美しく、闘牛士が牛を捌いて荒くれた観衆を感激させ、その眼に涙をさえ浮かばせるこの素晴らしい身振りが、そこに醸し出すものは、もはや闘いではなかった。それは一種宗教的な呪禁のようなものになっていた」と記されているように、牛と闘牛士との命がけの対決が、英雄的で崇高なものとして描かれている。


 モンテルランは、
1896年パリに生まれた。彼は、出征に反対していた母の逝去後に、第一次大戦に従軍している。従軍後に断固たる平和主義者となったジャン・ジオノに対して、モンテルランは戦闘の力強さを称揚するが、二人とも、第一次大戦を前線で戦った世代、すなわち「四世紀にわたる西洋の哲学的楽天主義を形成した古来の信念を完全に削ぎ落とされた最初の世代」に属している(Henri Godard, Une grande generation, Gallimard

 従軍経験から、モンテルランは、戦争を古代の戦闘やスポーツになぞらえて力強さを称えるようになるのだが、それは、「私には、空無の大海の上に身を支えるのに、おのれについて自分の抱いている考えしかない」と述べられるように(
Henry de Montherlant, Service inutile, in Essais, Gallimard, col. Pléiade、深い虚無感に裏打ちされているがゆえに、倨傲にも見えるほど個人的な姿勢に留まったかに思われる。

 そのようなモンテルランが、パリ解放後に全国作家委員会(
CNE)の「望ましからぬ作家のリスト」に名を連ねたのは、406月の休戦を示す題名の論集『夏至』を1941年に刊行したからである。1938年刊の著作『秋分』は、ミュンヘン会談以降のフランスの弱腰に対する批判を含む書物だったが、『夏至』は、「1940年のフランス人に見出される凡庸さに満ちた空気に対する嫌悪感」に突き動かされて書かれた文章を集めたものだった(Paul Sérant, Dictionnaire des écrivains français sous l’Occupation, Grancher

 「いったいどれほど以前から、フランスは、力というものに対する憎しみと軽蔑に浸ってきたのだろうか」というフランスへの筆鋒鋭い批判はしかし、彼をレジスタンスに駆り立てることはなく、ヴィシーへの賛意に向かわせたのである。彼は、芋虫の群れに小便を掛けて苦しめながらも助けてやったことを誇りつつ、「この遊びについて述べたのは、[…]それが戦争の働きに似ていないわけではないと思われるからだ」と説明しているが、これなど、当時のフランスの読者にとっては、敗者である自分たちは勝者であるドイツ人の寛容さを頼るしかあるまい、との主張にほかならなかった(
Henry de Montherlant, L’éxinoxe de septembre suivi de Le solstice de juin et de Mémoire, Gallimard

 だが、『夏至』で示されたフランスへの苛立ちと来るべき雄々しさは、モンテルランにあっては、ファシズムに向かうこともまたなかった。というのも、日本の武士道を参照するモンテルランは、「[英雄精神にかんする]自分の考えを要約すれば、集団に加わることが日に日に理にかなったことになるような社会において、断固として一人で在り続けること、となる」と述べ、あくまでも独立していることを重視するからだ。

 そして彼は、意外なことに、以前から作家は政治にかかわるべきではないと考えていたが、『夏至』においても、「数か月来、時事的事柄にあまりにうつつを抜かしてきた作家たちに対して、私は、彼らの作品のうち時事的事柄にかかわる部分がすっかり忘れ去られるだろうと予言しておく。ある貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるのと同じように、今日の新聞や雑誌を開けば、私はそこに未来の人々の無関心が広がるのを耳にするのだ」と記している(
Ibid.。しかしながら、彼の思惑とは異なり、これらの時事的な文章は、当初ドイツ側の検閲に引っ掛かって公にできなかったにもかかわらず、刊行された後はCNEによって政治的に判断されることになった。

 こうしてモンテルランは
194610月に処分を受けることになるのだが、それは、4410月から一年間の出版禁止という、遡及的できわめて形式的なものだった。確かにモンテルランは、ゲルハルト・ヘラーからワイマール旅行に誘われるも断っていたし、大戦中、『夏至』を除いてはもっぱら、ポルトガル王家の悲劇『死せる王妃』など、さほど政治色を感じさせない戯曲を発表していた。

 彼は、「
1940年から44年にかけて、身の安全や安心感や平穏さの必要から、いっさい行動というものを顧慮しなかった一人の反抗者として振舞った」わけである(Pierre Sipriot, Montherlant sans masque, Livre de poche。言うなれば、彼の雄々しさは、勇敢という周囲の評判とは異なって、きわめて私的なものだったのだ。だからこそ彼は、高名さにそぐわず、周りが彼の作品から彼自身に対して抱いていた期待を裏切ったことにもなるのだが、またそれゆえに、ミュンヘン会談の直後には戦争の危機を感じて東部の国境地帯に馳せ参じながらも、占領中には行動することもファシズムに心から傾倒することもなかったのである。

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