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呪われた作家たち12

 1944年、ジャン・ジロドゥが逝去した際、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルは日記に、「ジロドゥ死去。これほどわたしに反感をもよおさせる性格と、腹立たしい状況認識の才人を、そういつも褒めたたえてきたわけではない。彼はわれらがフランス人、特に1920年から1940年のフランス人の典型だ。[…]口先だけの好戦家をボロクソに言った『トロイ戦争は起こらないだろう』を書いておきながら、『大権』を発表、プロパガンダ大臣に就任するという卑劣な改詠詩でとどめを刺した」と記して(『ドリュウ・ラ・ロシェル日記1939-1945』有田英也訳、メタローグ、痛烈にジロドゥの変わり身を批判した。

 ジロドゥは、対独協力作家ではない。しかし、文学でも政治でも彼の存在は大きく、大戦間期から第二次大戦中のフランスの文壇を知るには欠かせない人物である。
1882年生まれの彼は、1909年に『田舎の女たち』でデビュー。その後、外務官僚になり41年に退職するまで、作家であり外交官であった(この頃のフランスの外交官には、ポール・クローデルやポール・モランなどの作家がいた)。

 ドリュが揶揄しているように、たとえば、トロイのヘクトールとギリシアのユリシーズが何とか戦争を回避しようとする努力(結局は水泡に帰すのだが)を描いた『トロイ戦争は起こらないだろう』をはじめとして、第二次大戦以前にジロドゥの描いた著作には、仏独協調の夢がしばしば読み取られる。


 ユーモアを放つ気取った、まさにprécieuxな文体を駆使したジロドゥだが、
30年代に発表した文章を集めた『大権』では、同化政策を担当する「人種省」の設立を唱え、今日から見れば驚くべき次のような文章を発表していた。「この国は軍事境界線だけでは一時的にしか救われまい。国が完全に救われうるのはフランス人種によってでしかなく、私たちは、一つの政策は人種的であるときに初めて優れた形をとると言明するヒトラーにまったく賛成である。なぜならそれはまた、コルベールやリシュリューの考えでもあったのだから」(Jean Giraudoux, De Pleins pouvoirs à Sans pouvoirs, Julliard

 なるほど、これは官僚の視点で人口の増減について論じたものであるし、当時の
raceという言葉も「人民」というほどの意味合いだったとは言える。だが、ナチスを逃れてライン川以東から多くのユダヤ人が移住してきた当時のフランスでは、ナチスを警戒するジロドゥのような人からもこのような発言がなされていたのであり、少なくともこの点で彼は、「フランス人の典型」として、頽廃した純然たる祖国を再建すべしという社会の雰囲気を象徴していたのだ。

 そして、戦争が不可避だと予想された
19397月、フランス政府は、国防の観点から、ゲッベルスが宣伝相を務めるドイツに対抗すべく、プロパガンダと検閲を任務とする情報局の総裁にジロドゥを任命する。彼は粛々とこの新たな任務を引き受け、仏独間で交戦が起こらなかった「奇妙な戦争」の間、共産主義者の書物などを禁じ、総動員についてラジオで国民に語りかけ、ドイツではなくヒトラーに対する戦争なのだとアメリカに向けて訴えた。

 
1940年夏、フランスの敗北に及んで総裁を辞したジロドゥは、ペタンに信頼を寄せはしたが、41年初めに政府から退職勧告される。そして「ドイツおよび仏独協働や新生ヨーロッパ、反ボルシェヴィキ戦線やその他のあらゆる対独協力的なテーマについては、ただの一行も記さなかった」(Jacques Body, Jean Giraudoux, Gallimard

 しかし彼は、
41年刊の評論集『文学』の序文において「フランスの詩人や作家、哲学者たちが考えてきたようなフランスの運命は、人類がその普遍的な運命に抗して見出した、もっとも精妙な拠り所なのである」と記してフランス文化の誇りを守ろうとし(Jean Giraudoux, Littératures, Gallimard、実際に二つの戯曲を発表する傍ら、検閲官ゲルハルト・ヘラーには、自分は英米に対する仏独の友好を信じると述べたのだった。

 そんななか、
19441月末、唐突な死がジロドゥを襲う。その死はあまりに突然だったため、当時はドイツ側による毒殺ではないかとの噂が流れたほどだ。葬儀には、大使や高級官僚、そしてヘラーのほかに、ガストン・ガリマール、ジャン・ポーラン、マルセル・ジュアンドー、ジョルジュ・シュアレス、ジャン・コクトーら、パリに留まっていた文学界の名士たちが参列した。

 彼の死去から半年後、パリは連合軍によって解放。ジロドゥの衒いを嫌っていたドリュもまた、
45年、自害してこの世を去った。一方、すでにアルベール・カミュの『異邦人』が42年に、ジャン=ポール・サルトルの『存在と無』は43年に、それぞれ刊行されていた。こうして、一つの時代が終わった。そして、禍々しき熱狂に満ちた粛清を経て、「抹殺すべき四年間」を封印しながら、フランス文学は新たな幕を上げるのだった。 

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 第二次大戦期のフランス文学をめぐる過去の連載の転載は今回をもって終わるけれど、一つの時代、それも思い出したくもない時代にどうけりをつけるのか、という問いは、どの国においても、もちろん日本においても、そもそもそれが問いとして認識されるのかどうかという点まで含めて、どうしても現在の問題として浮上してくるのだろう。フランスでは、第二次大戦期について はかなり抑圧が緩んできたような気がするが、アルジェリア戦争(とりわけharkiや拷問など)については、まだタブー視されているような印象がある。

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呪われた作家たち11

 「アルバンは意気揚々たるものがあった。彼は在校中も、希臘羅馬の精神を受けついで、婦女軽蔑を矜りとしていた」(アンリ・ド・モンテルラン『闘牛士』堀口大學訳、新潮文庫。フランス人青年がスペインで闘牛士として成長していく『闘牛士』には、このような言葉が読まれる。その作者、アンリ・ド・モンテルランは、1920年のデビュー時から、当時のフランス文学の一つの傾向だった感傷への傾向を厳しく批判し、雄々しさを追い求めていた。

 実際、彼の著作にはしばしば、激しい女性蔑視に加えて、行動と克己心の称揚が見られ、『闘牛士』では「愛の身振りにも増して美しく、闘牛士が牛を捌いて荒くれた観衆を感激させ、その眼に涙をさえ浮かばせるこの素晴らしい身振りが、そこに醸し出すものは、もはや闘いではなかった。それは一種宗教的な呪禁のようなものになっていた」と記されているように、牛と闘牛士との命がけの対決が、英雄的で崇高なものとして描かれている。


 モンテルランは、
1896年パリに生まれた。彼は、出征に反対していた母の逝去後に、第一次大戦に従軍している。従軍後に断固たる平和主義者となったジャン・ジオノに対して、モンテルランは戦闘の力強さを称揚するが、二人とも、第一次大戦を前線で戦った世代、すなわち「四世紀にわたる西洋の哲学的楽天主義を形成した古来の信念を完全に削ぎ落とされた最初の世代」に属している(Henri Godard, Une grande generation, Gallimard

 従軍経験から、モンテルランは、戦争を古代の戦闘やスポーツになぞらえて力強さを称えるようになるのだが、それは、「私には、空無の大海の上に身を支えるのに、おのれについて自分の抱いている考えしかない」と述べられるように(
Henry de Montherlant, Service inutile, in Essais, Gallimard, col. Pléiade、深い虚無感に裏打ちされているがゆえに、倨傲にも見えるほど個人的な姿勢に留まったかに思われる。

 そのようなモンテルランが、パリ解放後に全国作家委員会(
CNE)の「望ましからぬ作家のリスト」に名を連ねたのは、406月の休戦を示す題名の論集『夏至』を1941年に刊行したからである。1938年刊の著作『秋分』は、ミュンヘン会談以降のフランスの弱腰に対する批判を含む書物だったが、『夏至』は、「1940年のフランス人に見出される凡庸さに満ちた空気に対する嫌悪感」に突き動かされて書かれた文章を集めたものだった(Paul Sérant, Dictionnaire des écrivains français sous l’Occupation, Grancher

 「いったいどれほど以前から、フランスは、力というものに対する憎しみと軽蔑に浸ってきたのだろうか」というフランスへの筆鋒鋭い批判はしかし、彼をレジスタンスに駆り立てることはなく、ヴィシーへの賛意に向かわせたのである。彼は、芋虫の群れに小便を掛けて苦しめながらも助けてやったことを誇りつつ、「この遊びについて述べたのは、[…]それが戦争の働きに似ていないわけではないと思われるからだ」と説明しているが、これなど、当時のフランスの読者にとっては、敗者である自分たちは勝者であるドイツ人の寛容さを頼るしかあるまい、との主張にほかならなかった(
Henry de Montherlant, L’éxinoxe de septembre suivi de Le solstice de juin et de Mémoire, Gallimard

 だが、『夏至』で示されたフランスへの苛立ちと来るべき雄々しさは、モンテルランにあっては、ファシズムに向かうこともまたなかった。というのも、日本の武士道を参照するモンテルランは、「[英雄精神にかんする]自分の考えを要約すれば、集団に加わることが日に日に理にかなったことになるような社会において、断固として一人で在り続けること、となる」と述べ、あくまでも独立していることを重視するからだ。

 そして彼は、意外なことに、以前から作家は政治にかかわるべきではないと考えていたが、『夏至』においても、「数か月来、時事的事柄にあまりにうつつを抜かしてきた作家たちに対して、私は、彼らの作品のうち時事的事柄にかかわる部分がすっかり忘れ去られるだろうと予言しておく。ある貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるのと同じように、今日の新聞や雑誌を開けば、私はそこに未来の人々の無関心が広がるのを耳にするのだ」と記している(
Ibid.。しかしながら、彼の思惑とは異なり、これらの時事的な文章は、当初ドイツ側の検閲に引っ掛かって公にできなかったにもかかわらず、刊行された後はCNEによって政治的に判断されることになった。

 こうしてモンテルランは
194610月に処分を受けることになるのだが、それは、4410月から一年間の出版禁止という、遡及的できわめて形式的なものだった。確かにモンテルランは、ゲルハルト・ヘラーからワイマール旅行に誘われるも断っていたし、大戦中、『夏至』を除いてはもっぱら、ポルトガル王家の悲劇『死せる王妃』など、さほど政治色を感じさせない戯曲を発表していた。

 彼は、「
1940年から44年にかけて、身の安全や安心感や平穏さの必要から、いっさい行動というものを顧慮しなかった一人の反抗者として振舞った」わけである(Pierre Sipriot, Montherlant sans masque, Livre de poche。言うなれば、彼の雄々しさは、勇敢という周囲の評判とは異なって、きわめて私的なものだったのだ。だからこそ彼は、高名さにそぐわず、周りが彼の作品から彼自身に対して抱いていた期待を裏切ったことにもなるのだが、またそれゆえに、ミュンヘン会談の直後には戦争の危機を感じて東部の国境地帯に馳せ参じながらも、占領中には行動することもファシズムに心から傾倒することもなかったのである。

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