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勇気に威勢はない

・メヒティルト・ボルマン『沈黙を破る者』(赤坂桃子訳、河出書房新社、2014年)

本書は、ドイツを舞台に、ひょんなことから亡父の過去を探ることになった男をきっかけとして、現代に起こった殺人事件から、第二次大戦期や戦争直後の出来事が次第に明らかにされていくミステリー。出来事とはいえ、それは、大きな歴史に呑まれてしまう日々の営みがつねにそうであるように、複合的で容易な整理を許さない類のものだ。しかも、物語は、各章に日付が記され、現在と過去とを往復しながら展開されていくので、過去というものがどれほど現在の一部であり続けるものなのか、ひしひしと感じられる。

1930年代末、とても仲の良かった6人の若者は、戦争が始まるや、それぞれの道を突き進んでいく。ある者は親衛隊に入り、ある者は労働奉仕団に入団するが、面白いのは、彼ら彼女らのそれぞれが、恋愛感情という非常に個人的な動機をもって運命に飛び込んでいくことだ。非常時には誰もが恋愛を思い煩わなくなるなどということはないだろうし、どのような状況下であれ、人々、とりわけ若者は、愛し愛されたいという当たり前の欲望を抱くものだろう。

と同時に、本書の登場人物は、ほとんど全員が、深い悲しみを抱えているように見える。でも、「悲しむ時間がないというのは、人間存在のひとつの次元を失うこと」と登場人物の一人が述べるのが過去を回想しながらであるように(212ページ)、今という瞬間に束縛されざるをえない非常時――そもそも非常時とは、今のことしか考えられなくなる事態なのではないか――から時を隔てて初めて認識される感情というのもあるだろう。それは、幸せかどうかは別として、きわめて人間的で豊かな感情であるに違いない。

そして目を惹くことに、本書のなかで、色々な人を匿うへーファー家の父親や、当局から睨まれながらも医師として活動し続けたテレーゼの父親、そして現在の殺人事件を捜査する警察官カールといった、義を通そうとする人がおしなべて、物静かな人として描かれているのだ。本当の勇気には、大言壮語はおろか、威勢の良さなど、無縁なのだろう。

この点で思い起こされるのは、カナダの作家ジェニー・ウィテリック『ホロコーストを逃れて』(池田年穂訳、水声社、2014年)。これは、第二次大戦期、ドイツ支配下のガリツィア(現在のウクライナ西部)で、ユダヤ人ばかりか、ドイツの脱走兵をも自宅に匿った、女性の実話に基づいた小説。

娘のヘレナと二人で暮らす主人公のフランチシカは、自宅に彼らを匿っているにもかかわらず、ドイツ軍の指揮官を夕食に招待する。そうすることで、占領者たちの注意が自分に向かわないように図るのだ。そして、その様子を屋根裏から覗く脱走兵ヴィルハイムは、こう呟くのだった。

「僕は、いつでも、勇敢な人間というのは怖がらないものだと考えていた。フランチシカとヘレナに出遭って、僕は勇敢な人間も他のみんなと同じで怖がっているのだと分かる。勇敢な人間は、怖いにもかかわらずそのように振る舞うのだ。」(173ページ)

恐怖を超える落ち着き。それが恐らく、勇気と呼ばれるもの、あるいは少なくともその一面である。

だが、単なる偏見なのだが、本書は、ヨーロッパ大陸を舞台にしているにもかかわらず、ヤード法の度量衡が記されてしまうあたりに詰めの甘さを感じてしまい、率直なところ、第二次大戦期の東欧市民たちの目立たぬレジスタンスが、小説のネタとして単に「利用」されている感が拭えなかった。

虚構を通じて、過去の時代の雰囲気がそこはかとなく感じられるようになる経験はたびたびあるし、過去の出来事はいろいろな形で語り継がねばならないとしても、それでもやはり、困ったときのネタのように、戦争やナチが舞台に乗せられるというのは、「ホロコースト産業」を前にしたときのように、いささか食傷しかねない。そんななか、『沈黙を破る者』は、戦争を知る世代の父親がひた隠しにしてきた事柄にけりをつけるのも、事情を知らぬまま先行世代の過去に土足で立ち入ろうとして犠牲になるのも、どちらも、その子供の世代であるという点で、きわめて興味深い。まるで、過去については、語り続けよ、だが理解したとは思うな、という相反する命令が、過去を経験していない人々に対して下されているかのようなのだ。

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コメント

安原先生、こんにちは。
いつもお世話になっております。

今回、初コメントです。

『沈黙を破る者』の登場人物もフランチシカにも共通するのは、
恐怖に対する見方だと思う。

実際に現実に危機が起こっており、恐怖を感じるのは当然。
だが、恐怖を感じないのも、諦めも勇気とは違う。
威勢のよさは、闇雲なプラス思考で、現実から目を背けているのだけなのでは。

>「恐怖を超える落ち着き。」

恐怖を感じてもなお装える平静さ。
これは、危機的状況において、2つの目線を同時に持っている状態だと思う。
主観と客観的な視点を同時に持っている状態が勇気であるように思える。


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積極的に文章を読んだり・書いたりしていますが…
いざ、人目に触れる文章を書くとなると、なかなか書けません。
評価に見合うように精進します。
今後もよろしくお願いします。

投稿: 河原一樹 | 2014.10.26 11:07

>河原くん
こんにちは。元気ですか。こんなマイペースなブログですが、コメントをどうもありがとう。

たしかに、主観的な視線と自分を客観視する立場とを併せもつことがたぶん、勇気には不可欠なのかもしれませんね。

ともあれ私は(授業でもそうなのですが)、文学を、現実の写し鏡とも、一つの自律した世界とも捉えずに、作品に書いてあることから人間を考えてみたいと思っているので、こうした泥臭い読解になっていきます。

それでは、元気で。

投稿: 安原伸一朗 | 2014.10.26 17:18

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