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寄り添うこと、待つこと

・高橋源一郎『101年目の孤独』(岩波書店、2013年)

文学なるものが、賢い人たちのものになっているように見えるのはなぜだろう。なんだか息苦しいというか、堅苦しいというか。もちろん、現在では、話を聞いたり物語ったりするよりも、文字を書いたり読んだりすることを通じて作品に接することがほとんどだから、文字を読むことのできない人にとっては、文学は、残念ながら遠いものになってしまうのかもしれない。とはいえ……

私が高橋の作品を好きなのは、彼が、どのような言葉をもまずは受け取ってみるという姿勢において揺るがないからだ。たとえば、手洗いに飾る家もあるくらい人気なのに、あまり正面から取り上げられない相田みつをの詩を、きちんと読んでみるのだ(『国民のコトバ』毎日新聞社、2013年)。

本書は、そんな著者が、「みんなの心に冷たい風のようなものが吹いているような気がする」「ニッポンという国」で(viページ)、その周縁に位置づけられているかのような人々――絵を描く障害者や障害者の劇団、ホスピスの子供たちなど――に寄り添おうとした記録。そう、本書には、寄り添うという言葉がしっくりくる。

もっとも、たとえば、「脳性麻痺でまともにあるけずしゃべれない役者や、手や脚がなく、転がることしかできない役者たちが、テレビに出てきて、コメディをやり、コマーシャルで商品を宣伝する。それは、この資本主義の世界にミサイルを打ちこむようなものだろう。それは、原発がない世界よりも、もっとずっと遥かにすさまじく、新しい世界だろう。/そんな日がいつか来るのだろうか。わたしにはわからない。けれども、その世界に住む人びとは、いまよりもずっと幸せな気がするのである」という言葉などは(32ページ)、いささか楽観的にすぎるという気もする。

あくまでも寄り添うつもりの人からすれば、そのような場合、たしかに、幸せな驚きが生まれるのかもしれない。そういう人は、当事者から見て、「笑わせる」対象になったりもするだろう。

でも、同情するばかりの人や馬鹿にするだけの人など、寄り添う気のない人からすれば、そうした役者たちは、「笑われる」だけの状態に陥ってしまうのではないか、それでは単なるいじめになってしまうのではないか、と思うのだ。それに、彼らの日常は続いていくにもかかわらず、そのような彼らが資本主義の世界に取り込まれると、すぐに「消費」され、飽きられて――いわゆる「泣ける」対象に祭り上げられて――、直ちに忘れ去られてしまう懼れはあるまいか。とはいえ、「笑われる」状態から「笑わせる」状態が生じるかもしれないと考えると、「笑われる」ことを心配しすぎてもいけないのかもしれない。

ともあれ、著者は、社会のメインストリームからは退けられる「弱さ」なるものが、けっして「弱さ」などではないということを強調する。そしてこのことは、無反省に「弱者」だとか、「被抑圧者」といったレッテルを張ってしまう「善意」の人たちに対する警告でもあるだろう。つまり、「弱い」のは、おのれの弱さを忘れている「ふつう」の人としての「わたしたち」ではないのか、と。

「彼らの住む世界は、わたしたちの世界、「ふつう」の人びと、「健常者」と呼ばれる人びとの住む世界とは少し違う。彼らは、わたしたちとは、異なった論理で生きている。一見して「弱く」見える彼らは、わたしたちの庇護を必要としているように見える。
 だが、彼らの世界を歩いていて、わたしたちは突然、気づくのである。彼らがわたしたちを必要としているのではない、わたしたちが彼らを必要としているのではないか、ということに。
 彼ら「弱者」と呼ばれる人びとは、静かに、彼らを包む世界に耳をかたむけながら生きている。[…]ゆっくりと生きていると、目に入ってくるものがある。耳から聞こえてくるものがある。それらはすべて、わたしたち、「ふつう」の人たちが、見えなくなっているもの、聞こえなくなっているものだ。[…]彼らこそ、「生きている」のである。
 「文学」や「小説」もまた、目を凝らし、耳を澄まさなければ、ほんとうは、そこで何が起こっているのか、わからない世界なのだ。」(118ページ)

耳を澄ますこと、目を凝らすこと。著者はこうして、文学というものがこうした「「弱者」とよばれる人びと」に似ていることを指摘する。文学が遠くなったように感じるのは、私が見方と聴き方を忘れてしまったせいなのかもしれない。ここでは、鷲田清一による、「ことばが「注意」をもって聴き取られることが必要なのではない。「注意」をもって聴く耳があって、はじめてことばがうまれるのである」という指摘が思い浮かぶが(『「聴く」ことの力』、阪急コミュニケーションズ、1999年、163ページ)、実のところ、この高橋の文言と似たような言葉が、文学の対蹠点にいる医師の文章に読まれるかに見えるのは、別段、驚くべきことではないのかもしれない。

「障害新生児を授かるというのは誰にとっても耐えがたい不条理な苦痛である。しかしだからと言って、子どもを手放したり家庭を棄ててしまう親はほとんどいない。逃げることは叶わずその辛さに向き合わざるを得ない。長い時間をかけて、受け容れたり反発したりしながら、徐々に前へ進んでいく。医療関係者はそのことを知らなければならない。建前だけの倫理で家族を説得し従わせるのは実は倫理的ではない。時間はかかっても、両親はやがて新しい価値基準を構築し始めるはずだ。家族が悲哀の底から立ち上がるのを、待ち続ける根気を医師は持たなければならない。」(松永正訓『運命の子』小学館、2013年、218ページ)

これは、13トリソミーという重度の障害のある子供とその家族に寄り添いつつ(実際、本書では「寄り添う」という表現が多用されている)、生命倫理を考え続ける小児外科医の記録。いくつもの症例や家族に向き合ってきたうえで到達されたこの「待ち続ける」という境地は、目を凝らし、耳を澄ませるということにほかならないか、少なくとも、きわめて近いことのように思われる。

というのも、「おのずからという、そういう自生が起こるやもしれないひとつの「場」が生れるように、しかしあくまでそのためにではなくその意味が見えないままに日々くりかえされる小さな、丁寧すぎるくらいのふるまい、それらが折り重なるなかで、「場」の信頼感というものが醸成されてくる」のが、目的語をもたぬ「待つ」ということなのだとすれば(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、191ページ)、まさに「私の中の曖昧な生命倫理観はいったん解体され」たことの帰結としての「待ち続ける」という松永の覚悟は(217ページ)、この意味での待機という構えに重なるからである。それは、世界に対する根源的な信頼にのみ裏付けられた、身を開くという姿勢なのだろう。

そして、障害児にかかわる物語と言えば、しばしば短い命の話が読まれるが、それとは反対に、生きるということに目を向けることで、医学的には「短命という宿運から逃れることはできない」(220ページ)であろう子供の来たるべき最期を、いっさい記すまいという著者の寄り添い方には、不可避の死から逆算せずに今の命を見据えるという点で、とても説得力がある。

このように見ると、トルストイやレーモン・クノーが言うような、幸福な家庭はどれも同じようなものだが不幸な家庭はそれぞれの形で不幸である、といった趣旨の言葉は、「それぞれの家庭にはそれぞれの形の幸福がある」というこの著者に倣って(207ページ)、やはり反転させたくなる。つまり、幸福にはそれぞれの形があるが、不幸には定型があるのだ、と。

ところで、高橋は『101年目の孤独』の冒頭で、日本の混んだ電車で誰からも席を譲られなかった妊婦が、フランス人らしき青年に席を譲られる、というエピソードを語っていた(viページ)。なるほど、個々のフランス人はおそらくはかなり親切なのだろうし、私の実体験からしても、強くそう思う。

しかしながら、フランスで言われる「人権」には、知的障害者は想定されていないようなのだ。いや、これは言い過ぎなのだが、それでも、フランスには、胎児の不治の重篤な疾患を理由とした堕胎を認める胎児条項があるし、従来より簡便かつ精緻な出生前診断の普及によって、産まれてくる染色体異常の子供が、フランスでは減少しているという。産科婦人科全国医師会の副会長が、21トリソミーの子を産むことは負担と考えるかとの問いに対して、「精神的にも、金銭的にも、とんでもない負担だと思います」と述べてしまう国である(坂井律子『いのちを選ぶ社会』NHK出版、2013年、92ページ)。もちろん、こうした流れに反対する勢力も存在しているが、過去には産まない権利を目指して女性運動が展開されてきたという経緯があるにせよ、ある種の「弱さ」のもつ豊かさに向き合う点では、フランス社会は貧相で可哀想なのかもしれないと思う。

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