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笑うことの無力と罪

・ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(森内薫訳、河出書房新社、2014年)
・フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』(柴田元幸訳、集英社、2014年)

『帰ってきたヒトラー』は、タイトルの通り、自殺したはずのヒトラーがそのまま21世紀初頭のドイツで目を覚ます、という話。語り手がヒトラーということもあって、たいへん物議を醸したらしい。

その甦ったヒトラーは、事態が呑み込めないまま、当時の姿で振る舞うのだが、それが今日の人々にはコメディにしか見えない。実際、広場で目を覚ましたヒトラーに対して、サッカーをしていた少年たちが声をかける冒頭の場面など、両者のあまりの齟齬に、思わず吹き出してしまった。

「おそらく私は、助けを必要としているように見えたのだ。三人の少年は、それを正しく理解してくれた。さすがはヒトラーユーゲント。彼らはサッカーの試合を中断し、敬意を払いつつこちらに近づいてきた。当然だ。ドイツ帝国の総統が突然、手を伸ばせば届くほど近くに出現したのだ。[…]
 少年たちはやや距離をおいて私を取り囲み、私のことをじろじろと見た。その中からいちばん体の大きな、おそらくはこのグループのリーダーだろう少年が、私のほうを向いてこう言った。
 「だいじょうぶ? 大将」
 大将?
 まさかとは思ったが、だれひとりドイツ式敬礼を行わない。」(15‐16ページ)

文字通り息を吹き返したヒトラーは、自分が総統であることをいささかも疑わない。彼はしばらくして、自分の部下たちがいなくなったことを理解し、次第に現在のドイツの生活に馴染み、携帯電話さえ用いるようになるのだが、その信念は何一つ揺るがない。それどころか、ますます強固なものになる。そして彼の発言は、メディアを通じて、痛烈な皮肉として人々に面白がられ、消費され、体内化されていく。荒唐無稽な話に見えるのに、読み進めながらまるで違和感が生じないのは、細部が綿密に書き込まれているからだろう。

でも、だからこそ、そうして笑いながら読み進めるうちに、この話の舞台がほかならぬ現在であることを痛切に思い知らされる。そのとき、笑いは引き攣り、背筋が凍ってしまうのだ。急に現実に引き戻されるのは、本書を読んでいくと、たとえシニカルな冷笑でなくとも、ただ面白がって笑っているだけでは、何一つ事態の悪化を止められないではないかということに、否応なしに気づかされるからだ。

以前、歴史の激動にも毀されることのない人々の日常の逞しさを、戦時下のジョークを読んだときに感じたものだが、本書は、その日常そのものが異様なものに化けていくという事態を描いているだけに、なおさら恐ろしい。

状況の悪化を食い止めたいという善意から行動しながらも、気がついた時にはすでに手遅れで、いつの間にか、後戻りもできず、これまでの路線を先鋭化させていくよりほかないというのっぴきならぬ事態に陥っていた人々としては、先日再掲した第二次大戦期フランスの対独協力作家たちの姿がまずは思い浮かんだりもするが、そうした出口なしの状況の皺寄せは、誰よりもまず、社会の周縁で生きる人々に及ぶ。

そのことをまざまざと見せてくれるのが、『プロット・アゲンスト・アメリカ』だった。1940年のアメリカで、ローズベルトではなく、反ユダヤ主義者でナチから勲章をもらっていたパイロットのリンドバーグが大統領になっていたら、ロス家を髣髴させるアメリカのユダヤ人一家はどうなっていただろうか、という物語。

両親や兄、そして従兄と暮らす、10歳に満たない男の子の視点から描かれるのは、アメリカという国の自由の価値を信じて疑わず、自分たちではなくリンドバークこそ出ていくべきだと繰り返す父親や、その父親に同調しながら彼以上に芯の強さを見せる母親、「同化したユダヤ人」の成功例として出世を遂げようとする兄やその後援者となる叔母、ヨーロッパでの対ドイツ戦争に参加して負傷したのち、帰国後は同盟国に対して戦った「売国奴」と見なされてしまう従兄、そして自分の周りの子供たちや大人たちの姿である。

だが、それ以上に、そこに描かれる雰囲気が何とも生々しく、重苦しく、私は、読み終えた直後、すっかりその時代に浸かってしまったかのような感覚に捉われ、くたびれていた。登場人物たちは皆、日々を送るなかで、自分の判断に基づいて状況を打開しようとするのだが、真綿で首を絞められるかのように八方ふさがりの状況に追い詰められていく。それゆえ、ところどころに現れる書き手の省察は説得力に満ちている。

「[…]容赦ない不測の事態も、180度ねじってしまえば、私たち小中学生が教わるところの「歴史」に、無害な歴史になってしまう。そこにあっては、当時は予想もできなかったことすべてが、不可避の出来事としてページの上に並べられる。不測の事態の恐ろしさこそ、災いを叙事詩に変えることで歴史学が隠してしまうものなのだ」(155‐156ページ)。

これこそ、文学というもののの一面にほかならない。たとえば、ショアは600万人が虐殺されたという悲劇なのではなく、一つ一つのかけがえのない悲劇が同時期に600万回起こったということなのであり、そのことを忘れさせないのが文学なのだ。

ところで、大きな歴史の流れのなかで気がつかぬまま追い込まれてしまう人々と言えば、アハロン・アッペルフェルドの『バーデンハイム1939』(村岡崇光訳、みすず書房、1996年)などが思い浮かぶが、子供の視点ということで言えば、まずもって、ハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子役、岩波少年文庫)に思い至る。これまた、人々がいつの間にかどうにもならない事態に立ち至る過程が見事に描かれる作品だった。語り手の男の子「ぼく」は、ユダヤ人の友達が助けを求めに来た時、そして彼らを助けることが自分や両親の身を直接的な危険に晒すことになると知った時、「わからない、ぼくはどうすればいいのか」と「低い低い声で」無力を吐露するしかなくなってしまうのだった(193ページ)。

それにしても、陰鬱な空気になってきた。「嫌」だの「卑」だの禍々しい文字が書店に並び、「反日」や「売国奴」などといった猛々しい言葉が新聞広告に溢れている。これらは、自分の言葉に酔っていないとすれば、到底使えない言葉ではなかろうか。翻って、「愛国心」については、いつも、ジャン・ポーランの指摘が私の頭に浮かぶ。

「普遍理性的愛国者は感情的愛国者に非常な軽蔑を示す。彼は相手のことを狂人、排外主義者と呼ぶ。しかし感情的愛国者も相手に対して理性的愛国者におとらぬ軽蔑をいだいている。あいつは愛国者でないとまでいう。きわめて厄介なことは、それら両者のいずれもが、まったくまちがってはいないということである。
 というのは、いずれもそれぞれの仕方で母国を裏切っているからである」(『祖国は日夜つくられる』木場瀬卓三ほか訳、月曜書房、1951、14ページ。訳文を若干変更。拙訳『百フランのための殺人犯』書肆心水、2013年に引用)。

つまり、等身大のあるがままの祖国の姿を正面から見据えることが、どちらの陣営もできていない、というのである。ポーランは、対独協力者に対する粛清の嵐が吹き荒れる第二次大戦直後のフランスで、このような発言を繰り返したのだった。

ともあれ、子供にとって「容赦のない不測の事態」は、たしかに、大人にとっても「不測の事態」なのかもしれない。だがそれでも、大人はその皺寄せを子供たちに向けない義務があるようにも思う。そして、そうした事態のなかには、無関心や冷笑だけでは太刀打ちできなくなる局面というものもまた、あるのかもしれない。

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