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「本音」の悪魔のような囁き

・フランツ・ルツィウス『灰色のバスがやってきた』(山下公子訳、草思社、1991年)
・田野大輔『愛と欲望のナチズム』(講談社メチエ、2012年)

今日では、ナチスによる大量虐殺が、ユダヤ人やレジスタンスやロマやエホバの証人の信徒、同性愛者だけではなく、さまざまな障害者たちをも対象にしていたことは、よく知られている。でもなぜ、障害者が抹殺の対象なのか。それは、彼ら彼女らが、「生産」しないとされたからである。

本書は、教会が運営する障害者の福祉施設を舞台に、「安楽死」作戦とそれへの抵抗に題材をとったノンフィクション・ノベル。この作戦は、ドイツ各地の福祉施設で生活していた障害者たちをガスや薬物投与によって「安楽死」させるもので、1939年から41年まで続けられ、その後も終戦間際まで、統制の形を変えて続行された。40年4月からは、安楽死管理局がベルリンのティーアガルテン通4番地に設置されたことから、T4作戦とも呼ばれる。

これは、ユダヤ人絶滅作戦の地ならしでもあった。というのも、T4作戦に従事していたイルムフリート・エーベルルやフランツ・シュタングルはトレブリンカに、クリスチャン・ヴィルトはベウジェッツをはじめとした各絶滅収容所に勤務するなど、人事が繋がっていたからだ。「ユダヤ問題の最終解決」を目指したラインハルト作戦に従事する職員の「約20%がT4中央執行機関で働いていた職員」だったという(木畑和子「第二次世界大戦下のドイツにおける「安楽死」問題」、『1939――ドイツ第三帝国と第二次世界大戦』同文館、1989年、258ページ)。

「「T4作戦」は、大量殺戮の精神面、技術面の母胎である。「安楽死」と「ユダヤ人問題」とは時系列的につながる。どちらも同じ生物学的な論理をもつ。[…]/強制収容所での拘束とジェノサイドは、生物学的言辞を弄する全体主義思想、つまり生命の完全なる政治的支配の欲求にその根本が見つけられよう。「T4作戦」は、生権力の到来を犯罪的なまでに浮かび上がらせる。」(ジョルジュ・ベンスサン『ショアーの歴史』白水社、文庫クセジュ、69ページ)

これ以前にもすでに、障害者が生まれないようにすべく、20世紀初頭から、各国で障害者に対する断種が行われていたし、ドイツでも、1933年に断種法が制定されていた。だがドイツでは、第一次大戦の傷跡も生々しい1920年に、『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』(『「生きるに値しない命」とは誰のことか』森下直貴・佐野誠訳、窓社、2001年所収)が法学者のカール・ビンディングと医者のアルフレート・ホッヘによって発表されていた。これは、治癒不可能な「白痴」が、勤労者や兵士たちが命を落としているなかでも手厚い保護を受けていることの「不条理」を解消すべく、医師による彼ら彼女らの死を合法化する、という主張だった。

「法益たる資格が甚だしく損なわれたがために、生[命]を存続させることが、その担い手自身にとっても、社会にとっても一切の価値を持続的に失ってしまったような人の生[命]というものは、あろうか」とビンディングが記せば(36ページ)、「経済面に関するかぎり、極度知的障害者こそは、完全なる精神的な死のすべての前提条件を一番に満たすと同時に、誰にとっても最も重荷となる連中となろう」とホッヘが歩を進めて答えるのだった(77ページ)。

そもそも、「医師層はナチ党への加入率が国民全体平均の加入率よりもはるかに高い層」だったにしても(ティル・バスチアン『恐ろしい医師たち』山本啓一訳、かもがわ出版、2005年、41ページ)、ここには、他人の命よりカネが大事、という前提がはしなくも露呈している。それゆえ、ルツィウスのこの物語のなかでも、安楽死施設の看護人から次のような台詞が出ることになる。

「平然として看護人はヴィリー〔60年間施設で暮らしてきた精神障害者〕に向かって言いはなった。「60年もエッセンの施設にいたんだって? そいつはちょっとエサのやりすぎだあな、じいさんよ」」(158ページ)

この言葉はいったい何なのか。これは、えげつない「本音」にほかならない。自分たちが苦しんでいるのは、役立たずのこいつらの割を食っているからだ、という浅ましい考えだ。社会が窮屈になればなるほど、勢いを増すであろう態度でもある。だが、いったい誰が、どんな権利の下に、他人を「役に立つ/役に立たない」などと判断できるのか。それができるのは、時間を超越した存在だけなのではないか。そもそも「役に立つ」などという基準は何なのか。

人間はどれほど多面的に物事を考えようと、そこにはつねに限界がある。そして、その限界がどのようなものかは分からないが、ともかく限界があるということは分かる。ジャン・ポーランはそれを、「全体性の幻想」と呼んだのだった。

「警察が半年前から捜していたエドゥアール・ジャリの殺人犯は、ひょんなことから足がついた。ある日、通りにいた一人の男性が、突然走り出し、一件の住宅に飛び込み、管理人を突き飛ばした挙句、階段を駆け上がって屋根の上に逃げていったのである。みんな呆気にとられてしまったものの、警報が鳴らされた。警察が現場に到着。その男性は6時間後、女中部屋で見つかった。彼は、自分が当の殺人犯であり、司直に追われている人物であることをすらすらと自供した。――ではなぜ、彼は逃げたのか。それは、彼が、自分の方へ一人の警官が走り寄ってくるのを見たからだった。調査の結果、彼に走り寄ったというその警官は、家族をもった良きパパであり、バスに乗り遅れまいとして走っていただけであることが判明した。」(『百フランのための殺人犯』書肆心水、2013年)

犯罪者は、警官が24時間警官であり続けると思ってしまう。考えることのできる人なら誰しも、何事につけ、この犯人と同じような推論をしてしまうものだが、自分もその例に漏れないということだけは意識することができるはずだ。

また、ルツィウスの本書は、「「生きる価値なき」生命を救うための、安楽死に対する闘いの敗因は、施設責任者、看護婦、施設役員、職員にあったのではない。教会がこの戦いを敗北に導いたのである」と断じている点でも(169ページ)、注目される。ドイツのガレン司教が抗議の声を上げたことで、「安楽死」作戦は中止されたと見なされてきたからである。だが実際は、この作戦はより隠密に継続されることになってしまうのだった。

ところで、以前読んだ、メヒティルト・ボルマンの『沈黙を破る者』(赤坂桃子訳、河出書房新社、2014年)では、第二次大戦直前から大戦中の若者たちの恋愛――異性愛、同性愛、外国人との恋愛――が大きな役割を果たしていたので、実際のところ、この点で当時の人々はどのような私生活を送っていたのかと思って読んだのが、『愛と欲望のナチズム』。

抑圧的と思われがちなナチス時代、ドイツでは、実のところ、市民道徳が偽善として批判され、性の解放が主張されていたという。

「性愛の賛美は、子孫の繁殖をめざす出生奨励策の装飾にとどまるものではなかった。重要なのは、ナチズムが旧来の禁欲的な性道徳を否定し、現生肯定的・自然主義的な世界観を提示することで、性愛の喜びを享受するよう人々を鼓舞していた点である。欲求の充足を促された個々人は、そのことによって体制への忠誠心を高めるとともに、子供の出生を通じて体制に奉仕し、公的な栄誉を獲得する。」(22ページ)

性愛が体制から肯定されることで、人々は私生活をも動員されることになるというのだ。こうして、「健康で美しい」ヌードが氾濫し、「自然な」性欲が掻き立てられる一方で、男性の同性愛は、親衛隊をはじめとする男性集団に広まる恐れがあるとして、「再教育」や処罰の対象とされたという。ただ、同性愛の原因を探ろうとするヒムラーの関心もあって、「同性愛者が強制収容所にいたるまでの過程は複雑で、迫害の理由も一貫していなかった」(77ページ)。

そして、外国人とドイツ人女性の恋愛は『沈黙を破る者』でも重要なエピソードとなっていたが、ナチスは、ドイツ人の血の純潔を唱えていたにもかかわらず、「処罰の対象とされたのはドイツ人女性と外国人男性の性的関係だけであり、ドイツ人男性と外国人女性の関係はほとんど問題とされなかった」(209ページ)。フランスでも、ドイツ兵と懇ろになった女性が公衆の面前でリンチされたり、彼女たちの子供が「ボッシュの子」と蔑まれたという話があったが、父親たる男性は、なるほど、処罰の対象にはならなかったわけなのだ。

ともあれ、こうして眺めると、「能力のない人々が、自分たちの税金でただ飯食ってるのは許せないだろ」だとか、「いい女と寝たいだろ」といった、本来は後ろ暗い「本音」めいた事柄が、誰憚ることなく声高に主張されるようになってしまうのは、とても危険なことだと思う。こうしたタイプの立論には何を言っても無駄であるように思われるのが、恐ろしくもあり、歯痒くもある。というのも、誰にだって生きる権利はあるはずだと反論すれば、「お前は自分のカネが惜しくないのか」というようにすべてを金に還元されてしまうし、貞操によって守られるものがあるはずだと反論すれば、「きれいごとはうんざりだ」と市民的道徳観を嘲笑されてしまうのがオチだからだ。そしてナチスは、「健全」を旗印に、悪魔の囁きのようなこういう「本音」を厚かましくも公然と掲げたのだろうし、だからこそ大衆の支持を集めたという部分もあるのだろう。

今の社会にも、「本音」をめぐるこうした雰囲気が瀰漫してはいまいか。たとえば、「使える/使えない」という言葉遣いが、日常的に他の人間に対して用いられる状況を目の当たりにすると、私などは落胆してしまう。そんな言葉が人間に対して用いられるということは、第一、とても気色悪い、グロテスクなことではないか。でも、ひとたび「使える/使えない」という枠組みに囚われてしまうと、自分も他人から「使える」人間として評価されるべく努力せざるをえなくなるのだという点は、たとえその枠組みのなかで生きるにしても、意識しておいた方がいいのだろうと思っている。それこそはきっと、失ってならないかけがえのないものを失わないための数少ない方法の一つだろうから。

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