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「かたち」と「あり方」

・田中康夫『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社、2014年)

授業で『なんとなく、クリスタル』(新潮文庫)に言及することもあり、1980年代の日本で記号としての生活を送っていた登場人物たちはいったいどうなっているのだろうと興味が湧き、読んでみた。

『なんとなく、クリスタル』と同じく膨大な註が付され、これまた同様に表参道で締めくくられる本書を読み終えた時、なるほどそうだよね、と思うことがあった。それは、『なんとなく、クリスタル』もまた、本書と同様に、実は、「かたち」ではなく、「あり方」をこそ描いていたのだ、ということだ。

「恋愛や経済だけでなく政治も社会も、その「かたち」ではなく、その「あり方」こそが、常に問われている。戦争の終結に象徴される大多数の人々が待ち望んでいた「大文字」の変化が実現した後、それぞれ多種多様に異なる「小文字」の改善を人々が求め始める局面においては、とりわけ。」(232ページ)

『なんとなく、クリスタル』の登場人物たちは、「主体性がない」などと批判されたようだが、学生運動が退潮した後、消費社会の到来とともに生き始めた彼ら彼女らは、大きな枠組みではなく、周囲の空気のなかで「ちょっぴり贅沢な渇き」を抱きながら生きていた(251‐252ページ)、ということなのだろう。末尾に合計特殊出生率や老年人口比率の予想データが掲載されていた以上、あの物語は明らかに、時代の雰囲気を切り取った批評的散文だった。

人口が減少するなら、小さい規模での社会の幸福を考えればよいのに、なぜか右肩上がりの思考法だけは問われることがないままに、右肩上がりを持続させる方策ばかりが論じられてしまう。「飢餓や疾病に苦しむ、凄惨な状況ではない。けれども、日々の暮らし向きの中で人々は、少なからず”喉の渇き”を感じているのだ。”思想や良心”といった一人ひとりの立ち位置を超えて誰もが、日本の現在に、そして未来に」と、やはり本書もまた、時代の雰囲気をスパッと切り取ってくれる(252ページ)。

そして、登場人物たちが、二度の大震災を経た今日の日本を生きる本書では、「出来る時に出来る事を出来る人が出来る限り」ということばが幾度も繰り返され、登場人物たちを突き動かす原動力になっているかのようだ。そしてその言葉は、なかでも、南アフリカで眼鏡を通じて社会貢献を行おうとする由利を支えている。

貧しい国で、眼鏡を無料で配布するのではなく、誰もが手の届く値段で販売し、さらに、検眼から販売に至る過程を現地の人に研修していくというそのプログラムについて、「差し上げるだけなら、単なる施しでしょ。この取り組みは違うの。そこに私は共鳴したのよ」と言う彼女は、「尊厳と言ったらおおげさかな。でも、自分で自分の眼鏡を選ぶ喜びを得られるって、とても大切なことだと思うの。自分に合った眼鏡があれば、仕事も勉強も、そして家事や育児にも、意欲が湧いてくるでしょ。売ったらそれで終わりではないのも、私はいいなぁと思った。[…]」と語る(155ページ)。

言葉や触れ合い(「ペログリ」)だけではなく、商売もまた、単なる利潤の追求を超えて、本来は人と人を温かく繋ぐものだったはずだ。

精神障害を抱えた人々が共同生活を送る北海道は浦河の「べてるの家」にかんする本には、「べてるの家」が商売を始めた頃について、次のような記述がある。

「「医療」や「福祉」や「行政」の枠のなかにいるかぎり、彼らはいつも病人、すなわち治すべき人びとである、障害者、すなわち社会復帰しなければならない未完の存在だった。[…]ところがそこから一歩出て商売の世界に入れば、医療の世界にはけっしてありえない出会いがあり、連帯があった」(斉藤道雄『悩む力』みすず書房、2002年、84ページ)。

金銭がさらなる金銭を生み出す大きな動きに個人が翻弄されかねない時代にあって、利潤を追求しないというあり方もあるかもしれない。けれど、利益を上げない限り、「施し」の対象に固定されてしまいかねないのならば、まずは商売の可能性を広げてみるというあり方もあるのだろう。

障害者の就労を目指す「施設」ではなく、障害者が戦力となる「商売」。それを、スワンベーカリーで成り立たせている小倉昌男は『福祉を変える経営』(日経BP、2003年)で何度も、経営の観点を福祉に導入する可能性と重要性について語り(とはいえ実のところ、本書は業績を誇る言葉が繰り返される印象があり、ビジネスマンの本を読み慣れない私にはいささかしんどいものではあった)、知的障害者を主とする障害者雇用率7割の日本理化学工業の大山泰弘は、『働く幸せ』(WAVE出版、2009年)のなかで、チョーク――ちなみに、私の勤める日大商学部もこの会社のチョークを導入――の製造ラインを工夫することで、その製造はほぼすべて障害者に任せられるようになったばかりか、彼ら彼女らが誇りをもって働くようになったことを記している。

社会や国の「かたち」を考えることはもちろんとても大切なことなのだろうが、そればかりに囚われてしまうと、障害者や貧しい人は「施し」の対象にしかならず、「だから保障費が必要なのだ」という議論になりかねない。それに対して、ひとたび「あり方」を考えてみるならば、社会や個々人が障害者や貧しい人から学ぶということがあっても、なんら不思議ではない。

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生き残ろうとする理由

・Gabriel Wachmann, Daniel Goldenberg, Evadé du Vel d'hiv, Calmann-Lévy, 2006

1942年7月16日早暁から17日にかけて、パリに住む、子供を含めた外国籍ユダヤ人の一斉検挙が、フランス警察によって行われた。4000人を超える子供、3000人ほどの女性、約1100人の男性のうち、独身者や子供のいない人は直ちにドランシーに送られる一方、子供のいる人々はパリの冬季競輪場に収容された。彼ら彼女らはその後、フランス国内のピティヴィエやボーヌ・ラ・ロランド収容所を経て、まずは大人が、次いで親と引き離された子供たちも、最終的にアウシュヴィッツへと移送された。通称、ヴェルディヴ事件である。

「一般的には、この乱暴な一斉検挙は広範な無関心によって迎えられたと言って差し支えないが、子供たちも連行されたことが知られるようになると、同情心がこの冷淡さに取って代わることになる」と、自身もヴェルディヴ事件で検挙された作家・歴史家モーリス・ラジスフュスが記しているとおり(Maurice Rajsfus, La rafle du Vel d'hiv, col. Que sais-je ?, p.36。発音は「ラジスフュス」でいいのだろうか)、子供たちも検挙され、親と引き離された挙句に虐殺されるという点で、これは絶望的な事件だった。

本書は、ポーランドからフランスにやって来た仕立て屋のヴァクマンの家族がヴェルディヴへと連行され収容されるなか、14歳のガブリエル少年が、姉のロゼットおよび友人のファニーと一緒に、ヴェルディヴを脱出した証言である。ヴァクマンが記した一人称の証言を、作家であるダニエル・ゴールデンベルクが三人称の物語とした作品。このような作品に是非はあろうが、「読者には、再発見されたドキュメンタリー・フィルムを前にした観客のように感じてほしいし、この恥ずべき過去が、その本当の歴史的恐怖をまとった姿で読者の目に再構成されんことを。そして、ガブリエル・ヴァクマンがこの経験をしたのが14歳の頃であることをつねに念頭に置いていただきたい」という彼の狙いは(p.7)、成功しているものと思う。

本書に描き出されているのは、次第にユダヤ人対する締め付けが強まるドイツ占領下のパリにいながら、日常生活を送るなかで、なかなか危機感を抱けない人々や、手をこまねいているしかなくなってしまった周囲の人々の姿であり、同時に、立場の違いはあれど実にさまざまな人がいるということである。

たとえば、「ただで数少ないトイレは詰まっていて機能せず、直せる人は誰もいなかった。みんな、壁際に排泄するよりほかなかった」というヴェルディヴに収容されながらも(Maurice Rajsfus, op.cit., p.67)、「ピッチには子供たちの一団がいて、踊っている女の子や男の子さえいた」ことが報告され(p.63)、子供たちだけでも自分と一緒に脱出する道を探ろうというガブリエルの提案に対して、「あんたは母親から子供を取り上げるというのかい? 男たちは労働収容所に行くことになるだけよ。そして女と子供は解放されるんだわ」と怒りを露にするガブリエルの叔母の姿が記される(p.65)。

また、「[パリ郊外の]ノジャン=シュル=マルヌ県の警察官が一人だけ、この一斉検挙の翌日に職を辞しているが、これは唯一の例である」のが事実としても(Maurice Rajsfus, op.cit., p.43)、ガブリエルの父親に出頭命令書を持ってきた警官は、玄関に出たロゼットに対して、「お父さんにこの書類を渡すんだよ」と念を押しつつも、「お父さんに、この出頭命令に従っちゃだめだと言うんだ! 分かったかい」と注意を促している(p.39)。どのような状況であれ、誰においても、どれほど僅かであろうと人間的に振る舞う余地はあるのではないか、と思わされる箇所だ。

そしてガブリエルは、ヴェルディヴに着いた時、自分が激しい恐怖を感じていることを知る。

「この時まで、ガブリエルは腹を締め付け麻痺させているこの恐怖を押し隠していた。もうたくさんだ! 彼はこのひどいヴェルディヴを探検し、隅々まで知ろうと思った。ほどなく自分のしたいことがはっきりしてきた。逃げることだ!」(p.55)

そうしてガブリエルは、屋上からの逃げられることを発見して、巧みに脱出を果たすのだが、本書では、それ以降、終戦を迎えるまでのさまざまな冒険が語られる。彼の一家を密告しようと見張っていた管理人、脱出した彼を匿ったバルビエ家、自由地帯へと脱出させてくれたナブーレ氏、彼を雇った農場主、彼が身を寄せたパリの職業学校のレヴィ氏といった人々に加えて、彼の参加したレジスタンス活動や、過去の自分の住まいが接収されているなど以前の生活がすっかり破壊されたという事実…… 「許しでも忘却でもなく、という二つのことばが、彼らの考えていることを的確に要約している」(p.133)。

ところで、本書でとりわけ興味深いのは、戦後の紆余曲折を経てメキシコで実業家となっていたガブリエルが、過去の体験を証言しようとしたきっかけが、これまた間一髪で助かった経験をしたからだ、という点だ。1985年9月、巨大地震をメキシコが襲ったのである。

「1985年9月19日、メキシコシティから数百キロのサンタ・エレナで、ガブリエル・ヴァクマンは、この地震で自分が死ぬだろうと思った。57歳だった。数秒の間に、自分の生涯が脳裏をよぎった。自分や家族が無事だとわかると、これは単なる地震ではなく、一つの徴であることが彼にははっきりしているように思われた。今や、フランスに戻ってゼロから再出発し、とりわけ、証言せねばならないのだった」(pp.144-145)。

ここで思い出されるのは、人間の活動力を、生命過程を可能にする「労働」、道具の世界を作り上げる「仕事」、そして意味を生み出す「活動」に分けた、ハナ・アーレントの次のような言葉だ。

「真実の物語と虚構の物語の違いは、まさに後者が「作り上げられる」のにたいして、前者はけっしてつくられるのではないという点にある。私たちが生きている限り関与している真実の物語は、眼に見えるか見えないかにかかわらず、いかなる作者をももっていない。なぜなら、それは作られるものではないからである。この物語が暴露する「ある人」だけが主人公である。そして、他人と異なる唯一の「正体」は、もともとは触知できないものであるが、活動と言論を通じてそれを事後的に触知できるものにすることができる唯一の媒体、それが真の物語なのである。その人がだれであり、だれであったということがわかるのは、ただその人自身が主人公である物語――いいかえればその人の伝記――を知る場合だけである。」(『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、301‐302ページ)

どのような人間であろうとそれぞれの人生はかけがえがないわけだが、そのかけがえのない意味が見出されるのは、あくまで、人生という「物語」が完結する「事後」でしかないという。ガブリエルは、歴史の波に呑み込まれながらも、死がほんの身近に迫ったときに初めて、過去を語ろうという決意を抱いた。こうして、数々の危険を冒し、多くの人に救われながら、がむしゃらに自分が生き延びようとしてきたのは、証言するためにこそなのだ、ということが彼自身にとって、事後的に明らかになったのだろう。だとすれば、証言者としての人生は、余生と言えるのかもしれない。だがそれもまた、言うまでもなく、かけがえのない生なのだ。

(2015年7月31日追記) このヴェルディヴ事件をめぐって、「ヴェルディヴ事件の子供たちとパリの文壇」という論文を発表しました(日本大学商学部『総合文化研究』第21巻第1号)。この紀要はそのうち、本学のHPに公開されるはずなので、そのときにはリンクを張ります。

(2016年5月2日追記) ようやく上記の紀要がHPに公開されました。

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