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時間は大切だが金ではない

・水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書、2014年)

本書は、数百年に亘る利子率に注目し、ここ20年ほど日本で続く低金利が、16世紀末から17世紀初頭のイタリア以来の現象であることを指摘しつつ、16世紀のヨーロッパで起こったのが「荘園制・封建制から資本主義・主権国家システムへの移行」という根本的な変化だったとすれば、現在の世界においても、資本主義・主権国家システムから別のシステムへの根底的な変容が起こるのではないか、と問う刺激的な書物。そして、できる限りその移行を滑らかに行うかが検討されねばならないのであり、つまりは、「長い21世紀」の始まりに「脱成長という成長」を検討する局面に私たちは直面しているのだ、と主張する。

著者によれば、「グローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」からなる帝国システム(政治的側面)と資本主義システム(経済的側面)にあって、「中心」と「周辺」を結びつけるイデオロギーにほかな」ならない以上(42ページ)、途上国が成長して新興国に転じつつある現在、「周辺」はサブプライム層や非正規社員という形で生み出されつつある、という。

とてもスケールが大きく、説得力のある興味深い分析で、素人の私にとってはたいへん勉強になったが、なかでも面白かったのは、以下のような記述だった。

「低金利であるということ、つまりゼロ金利に近づくということは、次のように解釈できるはずです。もともと利子は、神に帰属していた「時間」を人間が所有することを意味していました。その結果、たとり着くゼロ金利というのは、先進国12億人が神になることを意味します。これは、時間に縛られる必要から解放されたということ、「タイム・イズ・マネー」の時代が終焉を迎えるということです」(129ページ)。

なるほど、私たちは、「24時間働けますか」というかつてのコピーに端的に見られたように、より速く遠くへとつねに急いで、さらに多くのものを手に入れようとするシステムの時代から、何らかの別のシステムの時代へと少しずつ移っているのだろうし、とりわけ、かたちではなくあり方という面で――金儲けや消費ではなくモノづくりに関心をもつ若い人が増えてきたという印象が、少なくとも私にはある――、その移行は実感されるのかもしれない。

そして、時間ということで言えば、まずはミヒャエル・エンデの『モモ』(大島かおり訳、岩波少年文庫)が思い浮かぶ。主人公の「モモ」が何をするかと言えば、むろん、人々から時間を盗んで人々を急き立てる「時間どろぼうたち」から時間を取り戻すことなのだが、それよりも特徴的なことに、彼女は人の話を聞くのだ。

 「小さなモモにできたこと、それはほかでもありません、あいての話を聞くことでした。なあんだ、そんなこと、とみなさんは言うでしょうね。話を聞くなんて、だれにだってできるじゃないかって。
 「でもそれは間違いです。ほんとうに聞くことのできる人は、めったにいないものです。そしてこのてんでモモは、それこそほかにはれいのないすばらしい才能をもっていたのです」(23ページ)。

聞くこと、それが待つことと不可分であることは以前にも考えてみたし、本書でも実際、「待つこともできなくてはいけないね」と時間の主「マイスター・ホラ」が「モモ」に諭している(245ページ)。また、この作品が「それぞれの人間の生活における固有の時間性の回復というもう一つのテーマに深く結びついて」いる点も大いに考えさせられるし、それは、メディアをどのように受容するかという問題へと拡げられるだろう(石田英敬『記号の知/メディアの知』東京大学出版会、2003年、200‐201ページ)。

でも、ここで私の関心を惹くのは、「時間どろぼう」である「灰色の男たち」の没個性、一様さである。そもそも彼らは、「BLW/553/c」というように、記号以外の名前をもたないのだった。

「ぬすんだ時間だけでできている」彼らは(352ページ)、「人生でだいじなことはひとつしかない。[…]それは、なにかに成功すること、ひとかどのものになること、たくさんのものを手に入れることだ」と人間たちに吹き込み、「きみがいることで、君の友だちはそもそもどういう利益をえているかだ。なにかの役にたつか? いや、たっていない。成功に近づき、金をもうけ、えらくなることを助けているか? そんなことはない」と人間たちを説得して回る(141ページ)。面白くもあり、恐ろしくもあるのは、今日の私たちにとって、こうした言葉がある程度の説得力をもっている点だ。それでもやはり、「役に立つ/役に立たない」という尺度「だけ」で、人間や世界が判断されてはなるまい。それは、「個であること」を否定することになるからだ。

そういえば、「時は金なり」という趣旨の話を残した「アメリカ建国の父」の一人、ベンジャミン・フランクリンを冒頭に引用しながら、マックス・ウェーバーが行ったのは、カルヴァン主義の「禁欲」が、天職を全うせんとする勤勉へと転化して、合理的な資本主義の精神を形成していった過程の分析だった。そして、ウェーバーを論じつつ、同じく「時は金なり」というフランクリンに言及しながら、「宗教改革の諸教理の所産が日の目を見るのが遅れたわけを説明するものは、資本主義の先天的にほとんど弁護不可能な特性である。資本主義の精神と倫理が純粋な状態で表示されたことがほとんどなかったのは注目すべきことだ」と記して、資本主義の根本的な図々しさを強調したのは、ジョルジュ・バタイユだった(『呪われた部分』生田耕作、二見書房、1973年、168ページ)。

そのバタイユは、生産/消費という枠組みではなく、豪奢に消尽されてきたはずの「過剰・剰余エネルギー」を考慮に入れた「普遍経済学」を考察しようとしていたが、その根本には「贈与」があった。「現状においては、富をその本分に、すなわち返報のない贈与、浪費に復帰させようとする基本的動きを、すべてがよってたかってごまかしにかかっている」と彼が記したのは(49ページ)、今から70年近くも遡る、1949年のことだった。

ともあれ、バタイユが「至高性」を「瞬間」と関連づけていたことを勘案すれば、「モモ」が取り戻す「固有の時間性」の一つのあり方は、「瞬間」になるのではないか。「瞬間」の積み重ねとして生きられる時間。それがどのような可能性をもつかは思いつかないけれど、少なくとも、それが、美的な時間でないとは言い切れまい。

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