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半径5メートルの世界

・朝井リョウ『何者』(新潮社、2012年)

学生から薦められて読んでみた。本書は、現在の東京で就職活動に励む大学生たちの物語。さまざまな肩書を記した名刺を配る学生もいれば、人前では就職活動を馬鹿にしながら自分もこっそり就職活動をする学生もいたり、観察者の位置に立ち続ける学生もいる。

自分から見てもかなりリアルな感じがするのは、本書に漂う独特の息苦しさにあるように思う。それは、一般に就職活動と見なされる事柄が、限られたパイの奪い合いのようなものだからであり、本書の主人公が分析するように、「就活がつらいものだと言われる」からだ。それがつらい理由として彼は、「ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒絶される体験を何度も繰り返すというのは、つらい。そしてもうひとつは、そんなにたいしたものではない自分を、たいしたもののように話し続けなくてはならないことだ」という二点を挙げる(40‐41ページ)。そしてそれは、自分がいったい「何者」なのかということを、簡明かつ的確に表現せねばならないという絶えざる必要としてのしかかってくる。

「いつからか俺たちは、短い言葉で自分を表現しなければならなくなった。フェイスブックやブログのトップページでは、わかりやすく、かつ簡潔に。ツイッターでは一四〇字以内で。就活の面接ではまずキーワードから。ほんの少しの言葉と小さな写真のみで自分が何者であるかを語るとき、どんな言葉を取捨選択するべきなのだろうか。」(54ページ)

思い浮かんだことをブログに書き散らしている私からすれば、自分が「何者」であるか、とうてい簡潔には表現できない。けれども、彼ら彼女らには、以前には存在しなかったコミュニケーションツールがあるではないか。ツイッターしかり、フェイスブックしかり、LINEしかり。だから、彼ら彼女らは、普段から簡潔な表現の訓練をしているとも言えるのではないか。私など、授業中もスマートホンをいじらないではいられない学生を見たり、テーブルを囲んでいる学生のグループが、話をするでもなくそれぞれ自分のスマートホンをいじっている様子を目の当たりにすると、なんだか可哀想になってしまうのだが、そんな彼らからすれば、スマートホンを持ってさえいない私の方が哀れなのかもしれない。

とはいうものの、そうしたツールは、いくら四六時中覗き込んでいるにせよあくまでもツールにすぎず、「ほんとうの」自分は別のところに存在しているのだ、と語り手は言う。

「ほんとうにたいせつなことは、ツイッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない。ほんとうに訴えたいことは、そんなところで発信して返事をもらって、それで満足するようなことではない。だけど、そういうところで見せている顔というものは常に存在しているように感じるから、いつしか、現実の顔とのギャップが生まれていってしまう。」(147ページ)

なるほど、主人公たちも、言葉に表現された自分と、「ほんとうにたいせつな」事柄とのギャップに息苦しさを感じているわけだ。しかし、登場人物の一部は、その息苦しさから逃れるにあたって、なんと、別のアカウントのツイッターで「本音」を吐露するのだ。あたかも、「ほんとうにたいせつな」自分は、別名のアカウント上に存在するかのように。

このところ、若い学生と話をしていて驚くことがままある。いわゆる「勉強」はそれなりにできるのに、世界のニュースをまるで知らないというか、ほとんど関心を抱いていないのだ。自分の力ではどうにもならないことが多すぎるという無力感もあるだろうが、本書を読んでなんとなく、その理由の一端が分かったような気がする。本書の登場人物たちは、遠くの人、それも見知らぬ匿名の人と瞬時にやり取りしているかに見えて、半径5メートルの世界に住み続けているのだった。

それは、就職活動という試練を前に、彼ら彼女らが、「あなたは何者ですか」と問われ続け、自問し続けて迷い込んだ、迷路のような空間なのだろう。さしずめ、「スマホを捨てよ、町へ出よう」といった感じだろうか。

「どうして、就職をするためには、「何者」かでなければならないんだろう。そもそも、ほとんどが「何者」でもない若者たちを、どうして、強制的に「何者」かであるように振る舞うよう仕向けるのだろう。[…]だが、それは、若者たちだけのことなのだろうか。人びとは、やはり「何者」であるよう仕向けられてはいないだろうか。/最初に、目指すべき「何者」があり、それに向かわねばならない、と思いこまされてはいないだろうか。」(高橋源一郎『「あの戦争」から「この戦争」へ』文芸春秋、2014年、206‐207ページ)

自分が何者なのかなど、だいたい「自分」に分かるものなのだろうか。犯罪者から見れば警官はいつでもどこでも警官だが、その子供からすればどこからどう見てもパパである。医者から見れば患者はいつでも患者だが、家族からすればかけがえのない一員である。それに、ヘーゲルの「主と奴の弁証法」を持ち出すまでもなく、「何者」かというのは、「ある」のではなく、労働などの活動を通して「なっていく」のではないか。「何者」かというのは、働き始めることによって初めて、「あぁ、自分はこういう仕事をしているのか」と気づく類のことではかろうか(だから私は学生には、「何者」でなくでもいいけれど、働いてみなさい、とは言う)。「何者」には、時間が必要なのだ。

だとすれば、現在の姿から遡る形で、過去は、まるで自分がその姿に向かって生きてきたかのように組み替えられることだろう。ジャン・ポーランは、それを「過去の予見」と呼んでいた。彼は、女性を口説く男性が、自分はまさに目の前の女性と恋に落ちるべく生まれてきたのだと錯覚する様を次のように論じている。

「ドラ[女性]――その言葉をこれまで何人の女に言ったのよ。
クロード[男性]――あぁ、でも、今回ばかりは別なんだ。

もっとも奇妙なのは、クロードが、「だって僕には、こうして君に出会うかもしれないなんて予想できなかったんだよ」と言い足すこともありうるということだ。まさにそのとき、彼は、まるでいつの日かドラにめぐり会うはずだとずっと以前から知っていたかのように、自分の過去の恋愛遍歴を組み替え作り直してしまうのだけれどね」(拙訳『百フランのための殺人犯』書肆心水、2013年、53ページ)

大学に通った人が「大学教育は無意味だった」などと言えるのも、もちろんこの「過去の予見」によるわけだが、この錯覚によって、人間がより人間らしくなる一面もあるように私は思う。ゴールを設定して、それまでの道程表をつくり、一つずつ「夢の実現」に向けて努力する、という姿勢は、ともすれば、目標達成に関係がないと思われる事柄を容赦なく切り捨てて余裕をなくすといったきわめて硬直したものになるか、ゴールまでの最短距離を最低の努力やコストで駆け抜けようとする小賢しい姿勢になってしまうからだ。

ここでふと、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳、早川文庫)の冒頭にある、レストランの駐車係の一節を思い出す。フィリップ・マーロウが、泥酔したテリー・レノックスを初対面ながらも放っておけないのを見た駐車係は、「お客さん、人がいいね。俺だったら、そんなやつは道ばたに放り出してとっとと行っちまいますがね。[…]俺にはね、こういうことについちゃひとつ哲学があるんです。このとおり弱肉強食の世界だ。ボクシングで言えば、人はなるたけクリンチに逃げて、いざというときのために力を蓄えておかなくちゃ」と講釈を垂れる。それに対してマーロウは一言、「そうやってここまでのしあがったわけだ」(11ページ)。

若い学生を対象とした「キャリア教育」なるものがどのようなものなのか、私は詳らかにしないが、もしそれが、「何者かでならなければならない、何者かにならなければならない、そのためのロードマップを作らねばならない」などと説くものなのであれば、私は思わず、その講師に対して、マーロウと同じ言葉を口走ってしまいそうだ。

子供の頃からの夢を実現した人の話は美しい。けれど、我が身を振り返れば、幼稚園の頃には電車の運転士になりたかったし、小学校の頃には科学者を目指していたし、高校時代にはゴダールやカラックスやドワイヨンを観て映画の道に憧れ、IDHEC(Fémis)に行ってみたいと仏文科を選んで、一時期は進級も覚束ないほど映画館でアルバイトしていたにもかかわらず(それでも、留学中に一度、韓国のドキュメンタリーを観にFémisに足を踏み入れた時には何だか感動してしまった)、結果としては教員になっているわけで(それすら「何者」なのかよく分からないけれど)、「何者かになる」というのは、目標なのではなく、こういう紆余曲折を経たうえでの結果なのではないか。

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