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五感に触れる物語

・小野正嗣『九年前の祈り』(講談社、2014年)

表題作のほか、3つの短編が収められた作品集。作品はいずれも、例によって大分南部の「浦」が舞台になっている。

「九年前の祈り」は、障害をもつと思しき幼い息子をもつシングルマザーの「さなえ」が、故郷の「浦」に戻っていたところ、九年前に町内から一緒にカナダへ旅行した中年女性の「みっちゃん姉」の息子が病気らしいと母親から聞かされたことをきっかけにして、その旅行での諸々の出来事などを思い出し、自分の過去や、自分と息子の関係を見つめ直す物語。

この表題作は、まさに五感に触れる物語だ。普段、私たちは、頻繁にメッセージのやり取りをしている。そもそもそうしないと、仕事も生活も、何一つ回っていかないからだ。言ってみれば、四六時中、私たちは意味に取り囲まれていている。

けれども、この物語は、のっけから、「意味」ではなく「声」に注意を向けさせる。

「何かよいことが起こったとき、人に話すと幸運の効果が失われると信じている母は、否定的なことを口にすると、それによって不幸や悪運を招き寄せると信じていた。まるでインフルエンザのウィルスは「インフルエンザ」という単語によって耳から感染し、「癌」という言葉の響きが患者のがん細胞を刺激し増殖させるかのように」(16ページ)。

そして、主人公「さなえ」の母を形容したこの記述は、実のところ、主人公の「さなえ」にこそ当てはまるようであり、実際、彼女は、物語のなかで、しばしば「声」を耳にする。それは他人からすれば幻聴でしかないだろうが、彼女にとっては、本当に聞こえる声なのであり、何より、触れてくる音なのだ。嫌ならそのまま瞼を閉じればすむ視覚や、そのまま吐き出せばよい味覚と異なって、聴覚は、手や道具を用いなければ、不快な音や声から逃げられないし、手や道具を用いても音や声からは逃げられないときさえある。その意味では、聴覚はとても受動的な感覚だ。

そういえば、本書に収められた他の作品でも、意味に囚われない聴覚をめぐる印象的な描写がたびたび読まれる。「死者と生者が一緒に暮らしている――その聞こえてきた声を発しているのは誰だかわからなかったが、その声のおかげで、生者と死者が一緒に暮らしていると思った、感じた、理解したのはまぎれもなく雄真だった」(「ウミガメの夜」138ページ)。あるいは、「言葉の響きに敏感な耳を持った人がいる。「まち」の飲み屋で働くアリサも矢野リンメイもそういう感度のよい耳の持ち主だった」(「お見舞い」189ページ)。本書の「浦」に生きる人々は、そうした五感を研ぎ澄ませているかのようだ。

声には、意味だけではなく、というより意味よりもまず、肌理とでも呼べるものがある。声の大きさや響き、声音、訛りなどなど。そして、実のところ、意味以上に伝わるのが、そうした言葉や音のもつ質感である。興味深いことに、このことは、たとえば、瀕死の状態から奇跡的に生還した漫画家による、自伝的漫画にも記されていた。この漫画家は、意識不明の状態をさまよっていたときのことを次のように描いている。

「制作業、自営業の人がいきなり倒れてそのまま死んでしまう
よくある話です。
「わたしもそのうちの一人だったのでした。
「絵なんか描いているせいで、家で仕事してるせいで、命を失ったんだ
周りの人は口をそろえて言ってきたと聞いています。
「絵を描いてそのあげくに死ぬ、脳が壊れてしまう
ということを目の当たりにした家族はやはり、それに対して異論を唱えられませんでした。
「ベッドに寝ているわたしの上を色々な言葉が飛び交っていました。
「頭がおかしくなっていても
容赦のない言葉は届くのです。
「言葉の意味が分からなくても、責められているということはわかるのです。
「知能に影響が出たせいで、それらの言葉は、ダイレクトに悪感情としてわたしに降りかかってきていました」(村上竹尾『死んで生き返りましたれぽ』双葉社、2014年、43‐44ページ)

あるいは、以前にもメモした言葉だが、村上春樹の『1Q84』にも似たような記述が見られた。

「看護婦は言った。「看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されてもされなくても、鼓膜が物理的に明るく震えることにかわりはありません。だから私たちは患者さんに聞こえても聞こえなくても、とにかく大きな声で明るいことを話しかけなさいと教えられます。理屈はどうであれ、それはきっと役に立つことだからです。経験的にもそう思います」」(第2巻、490ページ)

だが、小野のこの物語にはもう一つの受動的な感覚、すなわち嗅覚が、わずかしか言及されないがゆえに、かえって印象的に登場している。「さなえ」が、連れ子のある中年男性と男女の仲になり、その子供たちを紹介された席で、彼女は「男が注いでくれたビールを口に近づけた説き、コップの縁に生臭さを感じた」のだった(45ページ)。むろん、二人の関係は破局を迎える。あるいは、「さなえ」とともに故郷の町からカナダへ旅行した中年女性たちは、地下鉄車内に立ち込める体臭に困ってしまう。「「なんのにおいかーい? くせえのお」と後藤のえーこ姉の声が聞こえた。「まこと、ガイジンはシャワーを浴びるだけで風呂には入らんちゅう話じゃもんのお、くさや、あたしゃ気持ちが悪い、吐きそうじゃ」とふっちーが呻いた」(100ページ)。

こうしてこの物語は、最後に、手を繋いだり離したりという、触覚にたどり着く。「不安は消えなかった。息子の手はひんやりと冷たかった。だからさなえは手に力を込めた」(114ページ)。そしてこの触覚をきっかけに達成されるのは、五感そのものへの注視である。

「人間が原初的に無力であることはあらゆる道徳的動機の究極的源泉である」と記したのはフロイトだが(「心理学草案」『フロイト全集第3巻』岩波書店、2010年、30ページ)、それは、誰であれ人間は、泣き叫ぶ赤子として全面的に周囲の世話――乳をやり、おむつを替えるなどといった日常的な世話――に依存するという形で生まれてくる、ということには留まらない。それは、何よりもまず、泣き叫ぶ赤子のすべてがまずは周囲に受け入れられねばならない、ということだ。

そして、すべてを受け入れるとは、意味を超えてその存在を抱き留めるということにほかならない。だからこそ、本書の末尾で、「さなえ」が「希敏」を受け入れる瞬間は、「意味」を伴いがちな視覚と聴覚が退いていき、それに代わって、知覚そのものの肌理へと迫るかのように他の感覚が研ぎ澄まされていく過程が、段階を踏んで記されることになる。

「目を閉じて頭を垂れた。悲しみはさなえの耳元に口を寄せ、憑かれたように何かをささやいていた。聞きたくなかった。聞いてはならない。」

こうして視覚が閉ざされると、もはや、意味を伴わぬ「声」さえ排除される。

「顔をさらに息子の顔に、柔らかい髪に押しつけた。熱を感じた。」

このように、あらためて触覚を経たのち、五感のうちで残ったもの、すなわち、もっとも意味を担いにくい味覚と嗅覚が登場して、他なる存在の無条件的な受容が成就する。

「かすかに潮の味がした。息子のにおいが鼻いっぱいに広がった」(114ページ)。

というわけで、この物語は、救済の物語ではなく、それに先立つはずの受容の物語である。その受容によって守られるのは、「この世界にあることの驚きとでも言えばよいのか。生きていくうちに摩耗し、消えていくはずの驚きがいまだにある」存在であろう(「悪の花」206ページ)。そして、この文字通り殺伐とした世界のなかで今もっとも必要とされているのは、おそらく、「あらゆる道徳的動機の究極的源泉」としての、受容ということなのだ、と私は思う。

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