勇気に威勢はない

・メヒティルト・ボルマン『沈黙を破る者』(赤坂桃子訳、河出書房新社、2014年)

本書は、ドイツを舞台に、ひょんなことから亡父の過去を探ることになった男をきっかけとして、現代に起こった殺人事件から、第二次大戦期や戦争直後の出来事が次第に明らかにされていくミステリー。出来事とはいえ、それは、大きな歴史に呑まれてしまう日々の営みがつねにそうであるように、複合的で容易な整理を許さない類のものだ。しかも、物語は、各章に日付が記され、現在と過去とを往復しながら展開されていくので、過去というものがどれほど現在の一部であり続けるものなのか、ひしひしと感じられる。

1930年代末、とても仲の良かった6人の若者は、戦争が始まるや、それぞれの道を突き進んでいく。ある者は親衛隊に入り、ある者は労働奉仕団に入団するが、面白いのは、彼ら彼女らのそれぞれが、恋愛感情という非常に個人的な動機をもって運命に飛び込んでいくことだ。非常時には誰もが恋愛を思い煩わなくなるなどということはないだろうし、どのような状況下であれ、人々、とりわけ若者は、愛し愛されたいという当たり前の欲望を抱くものだろう。

と同時に、本書の登場人物は、ほとんど全員が、深い悲しみを抱えているように見える。でも、「悲しむ時間がないというのは、人間存在のひとつの次元を失うこと」と登場人物の一人が述べるのが過去を回想しながらであるように(212ページ)、今という瞬間に束縛されざるをえない非常時――そもそも非常時とは、今のことしか考えられなくなる事態なのではないか――から時を隔てて初めて認識される感情というのもあるだろう。それは、幸せかどうかは別として、きわめて人間的で豊かな感情であるに違いない。

そして目を惹くことに、本書のなかで、色々な人を匿うへーファー家の父親や、当局から睨まれながらも医師として活動し続けたテレーゼの父親、そして現在の殺人事件を捜査する警察官カールといった、義を通そうとする人がおしなべて、物静かな人として描かれているのだ。本当の勇気には、大言壮語はおろか、威勢の良さなど、無縁なのだろう。

この点で思い起こされるのは、カナダの作家ジェニー・ウィテリック『ホロコーストを逃れて』(池田年穂訳、水声社、2014年)。これは、第二次大戦期、ドイツ支配下のガリツィア(現在のウクライナ西部)で、ユダヤ人ばかりか、ドイツの脱走兵をも自宅に匿った、女性の実話に基づいた小説。

娘のヘレナと二人で暮らす主人公のフランチシカは、自宅に彼らを匿っているにもかかわらず、ドイツ軍の指揮官を夕食に招待する。そうすることで、占領者たちの注意が自分に向かわないように図るのだ。そして、その様子を屋根裏から覗く脱走兵ヴィルハイムは、こう呟くのだった。

「僕は、いつでも、勇敢な人間というのは怖がらないものだと考えていた。フランチシカとヘレナに出遭って、僕は勇敢な人間も他のみんなと同じで怖がっているのだと分かる。勇敢な人間は、怖いにもかかわらずそのように振る舞うのだ。」(173ページ)

恐怖を超える落ち着き。それが恐らく、勇気と呼ばれるもの、あるいは少なくともその一面である。

だが、単なる偏見なのだが、本書は、ヨーロッパ大陸を舞台にしているにもかかわらず、ヤード法の度量衡が記されてしまうあたりに詰めの甘さを感じてしまい、率直なところ、第二次大戦期の東欧市民たちの目立たぬレジスタンスが、小説のネタとして単に「利用」されている感が拭えなかった。

虚構を通じて、過去の時代の雰囲気がそこはかとなく感じられるようになる経験はたびたびあるし、過去の出来事はいろいろな形で語り継がねばならないとしても、それでもやはり、困ったときのネタのように、戦争やナチが舞台に乗せられるというのは、「ホロコースト産業」を前にしたときのように、いささか食傷しかねない。そんななか、『沈黙を破る者』は、戦争を知る世代の父親がひた隠しにしてきた事柄にけりをつけるのも、事情を知らぬまま先行世代の過去に土足で立ち入ろうとして犠牲になるのも、どちらも、その子供の世代であるという点で、きわめて興味深い。まるで、過去については、語り続けよ、だが理解したとは思うな、という相反する命令が、過去を経験していない人々に対して下されているかのようなのだ。

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寄り添うこと、待つこと

・高橋源一郎『101年目の孤独』(岩波書店、2013年)

文学なるものが、賢い人たちのものになっているように見えるのはなぜだろう。なんだか息苦しいというか、堅苦しいというか。もちろん、現在では、話を聞いたり物語ったりするよりも、文字を書いたり読んだりすることを通じて作品に接することがほとんどだから、文字を読むことのできない人にとっては、文学は、残念ながら遠いものになってしまうのかもしれない。とはいえ……

私が高橋の作品を好きなのは、彼が、どのような言葉をもまずは受け取ってみるという姿勢において揺るがないからだ。たとえば、手洗いに飾る家もあるくらい人気なのに、あまり正面から取り上げられない相田みつをの詩を、きちんと読んでみるのだ(『国民のコトバ』毎日新聞社、2013年)。

本書は、そんな著者が、「みんなの心に冷たい風のようなものが吹いているような気がする」「ニッポンという国」で(viページ)、その周縁に位置づけられているかのような人々――絵を描く障害者や障害者の劇団、ホスピスの子供たちなど――に寄り添おうとした記録。そう、本書には、寄り添うという言葉がしっくりくる。

もっとも、たとえば、「脳性麻痺でまともにあるけずしゃべれない役者や、手や脚がなく、転がることしかできない役者たちが、テレビに出てきて、コメディをやり、コマーシャルで商品を宣伝する。それは、この資本主義の世界にミサイルを打ちこむようなものだろう。それは、原発がない世界よりも、もっとずっと遥かにすさまじく、新しい世界だろう。/そんな日がいつか来るのだろうか。わたしにはわからない。けれども、その世界に住む人びとは、いまよりもずっと幸せな気がするのである」という言葉などは(32ページ)、いささか楽観的にすぎるという気もする。

あくまでも寄り添うつもりの人からすれば、そのような場合、たしかに、幸せな驚きが生まれるのかもしれない。そういう人は、当事者から見て、「笑わせる」対象になったりもするだろう。

でも、同情するばかりの人や馬鹿にするだけの人など、寄り添う気のない人からすれば、そうした役者たちは、「笑われる」だけの状態に陥ってしまうのではないか、それでは単なるいじめになってしまうのではないか、と思うのだ。それに、彼らの日常は続いていくにもかかわらず、そのような彼らが資本主義の世界に取り込まれると、すぐに「消費」され、飽きられて――いわゆる「泣ける」対象に祭り上げられて――、直ちに忘れ去られてしまう懼れはあるまいか。とはいえ、「笑われる」状態から「笑わせる」状態が生じるかもしれないと考えると、「笑われる」ことを心配しすぎてもいけないのかもしれない。

ともあれ、著者は、社会のメインストリームからは退けられる「弱さ」なるものが、けっして「弱さ」などではないということを強調する。そしてこのことは、無反省に「弱者」だとか、「被抑圧者」といったレッテルを張ってしまう「善意」の人たちに対する警告でもあるだろう。つまり、「弱い」のは、おのれの弱さを忘れている「ふつう」の人としての「わたしたち」ではないのか、と。

「彼らの住む世界は、わたしたちの世界、「ふつう」の人びと、「健常者」と呼ばれる人びとの住む世界とは少し違う。彼らは、わたしたちとは、異なった論理で生きている。一見して「弱く」見える彼らは、わたしたちの庇護を必要としているように見える。
 だが、彼らの世界を歩いていて、わたしたちは突然、気づくのである。彼らがわたしたちを必要としているのではない、わたしたちが彼らを必要としているのではないか、ということに。
 彼ら「弱者」と呼ばれる人びとは、静かに、彼らを包む世界に耳をかたむけながら生きている。[…]ゆっくりと生きていると、目に入ってくるものがある。耳から聞こえてくるものがある。それらはすべて、わたしたち、「ふつう」の人たちが、見えなくなっているもの、聞こえなくなっているものだ。[…]彼らこそ、「生きている」のである。
 「文学」や「小説」もまた、目を凝らし、耳を澄まさなければ、ほんとうは、そこで何が起こっているのか、わからない世界なのだ。」(118ページ)

耳を澄ますこと、目を凝らすこと。著者はこうして、文学というものがこうした「「弱者」とよばれる人びと」に似ていることを指摘する。文学が遠くなったように感じるのは、私が見方と聴き方を忘れてしまったせいなのかもしれない。ここでは、鷲田清一による、「ことばが「注意」をもって聴き取られることが必要なのではない。「注意」をもって聴く耳があって、はじめてことばがうまれるのである」という指摘が思い浮かぶが(『「聴く」ことの力』、阪急コミュニケーションズ、1999年、163ページ)、実のところ、この高橋の文言と似たような言葉が、文学の対蹠点にいる医師の文章に読まれるかに見えるのは、別段、驚くべきことではないのかもしれない。

「障害新生児を授かるというのは誰にとっても耐えがたい不条理な苦痛である。しかしだからと言って、子どもを手放したり家庭を棄ててしまう親はほとんどいない。逃げることは叶わずその辛さに向き合わざるを得ない。長い時間をかけて、受け容れたり反発したりしながら、徐々に前へ進んでいく。医療関係者はそのことを知らなければならない。建前だけの倫理で家族を説得し従わせるのは実は倫理的ではない。時間はかかっても、両親はやがて新しい価値基準を構築し始めるはずだ。家族が悲哀の底から立ち上がるのを、待ち続ける根気を医師は持たなければならない。」(松永正訓『運命の子』小学館、2013年、218ページ)

これは、13トリソミーという重度の障害のある子供とその家族に寄り添いつつ(実際、本書では「寄り添う」という表現が多用されている)、生命倫理を考え続ける小児外科医の記録。いくつもの症例や家族に向き合ってきたうえで到達されたこの「待ち続ける」という境地は、目を凝らし、耳を澄ませるということにほかならないか、少なくとも、きわめて近いことのように思われる。

というのも、「おのずからという、そういう自生が起こるやもしれないひとつの「場」が生れるように、しかしあくまでそのためにではなくその意味が見えないままに日々くりかえされる小さな、丁寧すぎるくらいのふるまい、それらが折り重なるなかで、「場」の信頼感というものが醸成されてくる」のが、目的語をもたぬ「待つ」ということなのだとすれば(鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書、2006年、191ページ)、まさに「私の中の曖昧な生命倫理観はいったん解体され」たことの帰結としての「待ち続ける」という松永の覚悟は(217ページ)、この意味での待機という構えに重なるからである。それは、世界に対する根源的な信頼にのみ裏付けられた、身を開くという姿勢なのだろう。

そして、障害児にかかわる物語と言えば、しばしば短い命の話が読まれるが、それとは反対に、生きるということに目を向けることで、医学的には「短命という宿運から逃れることはできない」(220ページ)であろう子供の来たるべき最期を、いっさい記すまいという著者の寄り添い方には、不可避の死から逆算せずに今の命を見据えるという点で、とても説得力がある。

このように見ると、トルストイやレーモン・クノーが言うような、幸福な家庭はどれも同じようなものだが不幸な家庭はそれぞれの形で不幸である、といった趣旨の言葉は、「それぞれの家庭にはそれぞれの形の幸福がある」というこの著者に倣って(207ページ)、やはり反転させたくなる。つまり、幸福にはそれぞれの形があるが、不幸には定型があるのだ、と。

ところで、高橋は『101年目の孤独』の冒頭で、日本の混んだ電車で誰からも席を譲られなかった妊婦が、フランス人らしき青年に席を譲られる、というエピソードを語っていた(viページ)。なるほど、個々のフランス人はおそらくはかなり親切なのだろうし、私の実体験からしても、強くそう思う。

しかしながら、フランスで言われる「人権」には、知的障害者は想定されていないようなのだ。いや、これは言い過ぎなのだが、それでも、フランスには、胎児の不治の重篤な疾患を理由とした堕胎を認める胎児条項があるし、従来より簡便かつ精緻な出生前診断の普及によって、産まれてくる染色体異常の子供が、フランスでは減少しているという。産科婦人科全国医師会の副会長が、21トリソミーの子を産むことは負担と考えるかとの問いに対して、「精神的にも、金銭的にも、とんでもない負担だと思います」と述べてしまう国である(坂井律子『いのちを選ぶ社会』NHK出版、2013年、92ページ)。もちろん、こうした流れに反対する勢力も存在しているが、過去には産まない権利を目指して女性運動が展開されてきたという経緯があるにせよ、ある種の「弱さ」のもつ豊かさに向き合う点では、フランス社会は貧相で可哀想なのかもしれないと思う。

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笑うことの無力と罪

・ティムール・ヴェルメシュ『帰ってきたヒトラー』(森内薫訳、河出書房新社、2014年)
・フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』(柴田元幸訳、集英社、2014年)

『帰ってきたヒトラー』は、タイトルの通り、自殺したはずのヒトラーがそのまま21世紀初頭のドイツで目を覚ます、という話。語り手がヒトラーということもあって、たいへん物議を醸したらしい。

その甦ったヒトラーは、事態が呑み込めないまま、当時の姿で振る舞うのだが、それが今日の人々にはコメディにしか見えない。実際、広場で目を覚ましたヒトラーに対して、サッカーをしていた少年たちが声をかける冒頭の場面など、両者のあまりの齟齬に、思わず吹き出してしまった。

「おそらく私は、助けを必要としているように見えたのだ。三人の少年は、それを正しく理解してくれた。さすがはヒトラーユーゲント。彼らはサッカーの試合を中断し、敬意を払いつつこちらに近づいてきた。当然だ。ドイツ帝国の総統が突然、手を伸ばせば届くほど近くに出現したのだ。[…]
 少年たちはやや距離をおいて私を取り囲み、私のことをじろじろと見た。その中からいちばん体の大きな、おそらくはこのグループのリーダーだろう少年が、私のほうを向いてこう言った。
 「だいじょうぶ? 大将」
 大将?
 まさかとは思ったが、だれひとりドイツ式敬礼を行わない。」(15‐16ページ)

文字通り息を吹き返したヒトラーは、自分が総統であることをいささかも疑わない。彼はしばらくして、自分の部下たちがいなくなったことを理解し、次第に現在のドイツの生活に馴染み、携帯電話さえ用いるようになるのだが、その信念は何一つ揺るがない。それどころか、ますます強固なものになる。そして彼の発言は、メディアを通じて、痛烈な皮肉として人々に面白がられ、消費され、体内化されていく。荒唐無稽な話に見えるのに、読み進めながらまるで違和感が生じないのは、細部が綿密に書き込まれているからだろう。

でも、だからこそ、そうして笑いながら読み進めるうちに、この話の舞台がほかならぬ現在であることを痛切に思い知らされる。そのとき、笑いは引き攣り、背筋が凍ってしまうのだ。急に現実に引き戻されるのは、本書を読んでいくと、たとえシニカルな冷笑でなくとも、ただ面白がって笑っているだけでは、何一つ事態の悪化を止められないではないかということに、否応なしに気づかされるからだ。

以前、歴史の激動にも毀されることのない人々の日常の逞しさを、戦時下のジョークを読んだときに感じたものだが、本書は、その日常そのものが異様なものに化けていくという事態を描いているだけに、なおさら恐ろしい。

状況の悪化を食い止めたいという善意から行動しながらも、気がついた時にはすでに手遅れで、いつの間にか、後戻りもできず、これまでの路線を先鋭化させていくよりほかないというのっぴきならぬ事態に陥っていた人々としては、先日再掲した第二次大戦期フランスの対独協力作家たちの姿がまずは思い浮かんだりもするが、そうした出口なしの状況の皺寄せは、誰よりもまず、社会の周縁で生きる人々に及ぶ。

そのことをまざまざと見せてくれるのが、『プロット・アゲンスト・アメリカ』だった。1940年のアメリカで、ローズベルトではなく、反ユダヤ主義者でナチから勲章をもらっていたパイロットのリンドバーグが大統領になっていたら、ロス家を髣髴させるアメリカのユダヤ人一家はどうなっていただろうか、という物語。

両親や兄、そして従兄と暮らす、10歳に満たない男の子の視点から描かれるのは、アメリカという国の自由の価値を信じて疑わず、自分たちではなくリンドバークこそ出ていくべきだと繰り返す父親や、その父親に同調しながら彼以上に芯の強さを見せる母親、「同化したユダヤ人」の成功例として出世を遂げようとする兄やその後援者となる叔母、ヨーロッパでの対ドイツ戦争に参加して負傷したのち、帰国後は同盟国に対して戦った「売国奴」と見なされてしまう従兄、そして自分の周りの子供たちや大人たちの姿である。

だが、それ以上に、そこに描かれる雰囲気が何とも生々しく、重苦しく、私は、読み終えた直後、すっかりその時代に浸かってしまったかのような感覚に捉われ、くたびれていた。登場人物たちは皆、日々を送るなかで、自分の判断に基づいて状況を打開しようとするのだが、真綿で首を絞められるかのように八方ふさがりの状況に追い詰められていく。それゆえ、ところどころに現れる書き手の省察は説得力に満ちている。

「[…]容赦ない不測の事態も、180度ねじってしまえば、私たち小中学生が教わるところの「歴史」に、無害な歴史になってしまう。そこにあっては、当時は予想もできなかったことすべてが、不可避の出来事としてページの上に並べられる。不測の事態の恐ろしさこそ、災いを叙事詩に変えることで歴史学が隠してしまうものなのだ」(155‐156ページ)。

これこそ、文学というもののの一面にほかならない。たとえば、ショアは600万人が虐殺されたという悲劇なのではなく、一つ一つのかけがえのない悲劇が同時期に600万回起こったということなのであり、そのことを忘れさせないのが文学なのだ。

ところで、大きな歴史の流れのなかで気がつかぬまま追い込まれてしまう人々と言えば、アハロン・アッペルフェルドの『バーデンハイム1939』(村岡崇光訳、みすず書房、1996年)などが思い浮かぶが、子供の視点ということで言えば、まずもって、ハンス・ペーター・リヒターの『あのころはフリードリヒがいた』(上田真而子役、岩波少年文庫)に思い至る。これまた、人々がいつの間にかどうにもならない事態に立ち至る過程が見事に描かれる作品だった。語り手の男の子「ぼく」は、ユダヤ人の友達が助けを求めに来た時、そして彼らを助けることが自分や両親の身を直接的な危険に晒すことになると知った時、「わからない、ぼくはどうすればいいのか」と「低い低い声で」無力を吐露するしかなくなってしまうのだった(193ページ)。

それにしても、陰鬱な空気になってきた。「嫌」だの「卑」だの禍々しい文字が書店に並び、「反日」や「売国奴」などといった猛々しい言葉が新聞広告に溢れている。これらは、自分の言葉に酔っていないとすれば、到底使えない言葉ではなかろうか。翻って、「愛国心」については、いつも、ジャン・ポーランの指摘が私の頭に浮かぶ。

「普遍理性的愛国者は感情的愛国者に非常な軽蔑を示す。彼は相手のことを狂人、排外主義者と呼ぶ。しかし感情的愛国者も相手に対して理性的愛国者におとらぬ軽蔑をいだいている。あいつは愛国者でないとまでいう。きわめて厄介なことは、それら両者のいずれもが、まったくまちがってはいないということである。
 というのは、いずれもそれぞれの仕方で母国を裏切っているからである」(『祖国は日夜つくられる』木場瀬卓三ほか訳、月曜書房、1951、14ページ。訳文を若干変更。拙訳『百フランのための殺人犯』書肆心水、2013年に引用)。

つまり、等身大のあるがままの祖国の姿を正面から見据えることが、どちらの陣営もできていない、というのである。ポーランは、対独協力者に対する粛清の嵐が吹き荒れる第二次大戦直後のフランスで、このような発言を繰り返したのだった。

ともあれ、子供にとって「容赦のない不測の事態」は、たしかに、大人にとっても「不測の事態」なのかもしれない。だがそれでも、大人はその皺寄せを子供たちに向けない義務があるようにも思う。そして、そうした事態のなかには、無関心や冷笑だけでは太刀打ちできなくなる局面というものもまた、あるのかもしれない。

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呪われた作家たち12

 1944年、ジャン・ジロドゥが逝去した際、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルは日記に、「ジロドゥ死去。これほどわたしに反感をもよおさせる性格と、腹立たしい状況認識の才人を、そういつも褒めたたえてきたわけではない。彼はわれらがフランス人、特に1920年から1940年のフランス人の典型だ。[…]口先だけの好戦家をボロクソに言った『トロイ戦争は起こらないだろう』を書いておきながら、『大権』を発表、プロパガンダ大臣に就任するという卑劣な改詠詩でとどめを刺した」と記して(『ドリュウ・ラ・ロシェル日記1939-1945』有田英也訳、メタローグ、痛烈にジロドゥの変わり身を批判した。

 ジロドゥは、対独協力作家ではない。しかし、文学でも政治でも彼の存在は大きく、大戦間期から第二次大戦中のフランスの文壇を知るには欠かせない人物である。
1882年生まれの彼は、1909年に『田舎の女たち』でデビュー。その後、外務官僚になり41年に退職するまで、作家であり外交官であった(この頃のフランスの外交官には、ポール・クローデルやポール・モランなどの作家がいた)。

 ドリュが揶揄しているように、たとえば、トロイのヘクトールとギリシアのユリシーズが何とか戦争を回避しようとする努力(結局は水泡に帰すのだが)を描いた『トロイ戦争は起こらないだろう』をはじめとして、第二次大戦以前にジロドゥの描いた著作には、仏独協調の夢がしばしば読み取られる。


 ユーモアを放つ気取った、まさにprécieuxな文体を駆使したジロドゥだが、
30年代に発表した文章を集めた『大権』では、同化政策を担当する「人種省」の設立を唱え、今日から見れば驚くべき次のような文章を発表していた。「この国は軍事境界線だけでは一時的にしか救われまい。国が完全に救われうるのはフランス人種によってでしかなく、私たちは、一つの政策は人種的であるときに初めて優れた形をとると言明するヒトラーにまったく賛成である。なぜならそれはまた、コルベールやリシュリューの考えでもあったのだから」(Jean Giraudoux, De Pleins pouvoirs à Sans pouvoirs, Julliard

 なるほど、これは官僚の視点で人口の増減について論じたものであるし、当時の
raceという言葉も「人民」というほどの意味合いだったとは言える。だが、ナチスを逃れてライン川以東から多くのユダヤ人が移住してきた当時のフランスでは、ナチスを警戒するジロドゥのような人からもこのような発言がなされていたのであり、少なくともこの点で彼は、「フランス人の典型」として、頽廃した純然たる祖国を再建すべしという社会の雰囲気を象徴していたのだ。

 そして、戦争が不可避だと予想された
19397月、フランス政府は、国防の観点から、ゲッベルスが宣伝相を務めるドイツに対抗すべく、プロパガンダと検閲を任務とする情報局の総裁にジロドゥを任命する。彼は粛々とこの新たな任務を引き受け、仏独間で交戦が起こらなかった「奇妙な戦争」の間、共産主義者の書物などを禁じ、総動員についてラジオで国民に語りかけ、ドイツではなくヒトラーに対する戦争なのだとアメリカに向けて訴えた。

 
1940年夏、フランスの敗北に及んで総裁を辞したジロドゥは、ペタンに信頼を寄せはしたが、41年初めに政府から退職勧告される。そして「ドイツおよび仏独協働や新生ヨーロッパ、反ボルシェヴィキ戦線やその他のあらゆる対独協力的なテーマについては、ただの一行も記さなかった」(Jacques Body, Jean Giraudoux, Gallimard

 しかし彼は、
41年刊の評論集『文学』の序文において「フランスの詩人や作家、哲学者たちが考えてきたようなフランスの運命は、人類がその普遍的な運命に抗して見出した、もっとも精妙な拠り所なのである」と記してフランス文化の誇りを守ろうとし(Jean Giraudoux, Littératures, Gallimard、実際に二つの戯曲を発表する傍ら、検閲官ゲルハルト・ヘラーには、自分は英米に対する仏独の友好を信じると述べたのだった。

 そんななか、
19441月末、唐突な死がジロドゥを襲う。その死はあまりに突然だったため、当時はドイツ側による毒殺ではないかとの噂が流れたほどだ。葬儀には、大使や高級官僚、そしてヘラーのほかに、ガストン・ガリマール、ジャン・ポーラン、マルセル・ジュアンドー、ジョルジュ・シュアレス、ジャン・コクトーら、パリに留まっていた文学界の名士たちが参列した。

 彼の死去から半年後、パリは連合軍によって解放。ジロドゥの衒いを嫌っていたドリュもまた、
45年、自害してこの世を去った。一方、すでにアルベール・カミュの『異邦人』が42年に、ジャン=ポール・サルトルの『存在と無』は43年に、それぞれ刊行されていた。こうして、一つの時代が終わった。そして、禍々しき熱狂に満ちた粛清を経て、「抹殺すべき四年間」を封印しながら、フランス文学は新たな幕を上げるのだった。 

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 第二次大戦期のフランス文学をめぐる過去の連載の転載は今回をもって終わるけれど、一つの時代、それも思い出したくもない時代にどうけりをつけるのか、という問いは、どの国においても、もちろん日本においても、そもそもそれが問いとして認識されるのかどうかという点まで含めて、どうしても現在の問題として浮上してくるのだろう。フランスでは、第二次大戦期について はかなり抑圧が緩んできたような気がするが、アルジェリア戦争(とりわけharkiや拷問など)については、まだタブー視されているような印象がある。

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呪われた作家たち11

 「アルバンは意気揚々たるものがあった。彼は在校中も、希臘羅馬の精神を受けついで、婦女軽蔑を矜りとしていた」(アンリ・ド・モンテルラン『闘牛士』堀口大學訳、新潮文庫。フランス人青年がスペインで闘牛士として成長していく『闘牛士』には、このような言葉が読まれる。その作者、アンリ・ド・モンテルランは、1920年のデビュー時から、当時のフランス文学の一つの傾向だった感傷への傾向を厳しく批判し、雄々しさを追い求めていた。

 実際、彼の著作にはしばしば、激しい女性蔑視に加えて、行動と克己心の称揚が見られ、『闘牛士』では「愛の身振りにも増して美しく、闘牛士が牛を捌いて荒くれた観衆を感激させ、その眼に涙をさえ浮かばせるこの素晴らしい身振りが、そこに醸し出すものは、もはや闘いではなかった。それは一種宗教的な呪禁のようなものになっていた」と記されているように、牛と闘牛士との命がけの対決が、英雄的で崇高なものとして描かれている。


 モンテルランは、
1896年パリに生まれた。彼は、出征に反対していた母の逝去後に、第一次大戦に従軍している。従軍後に断固たる平和主義者となったジャン・ジオノに対して、モンテルランは戦闘の力強さを称揚するが、二人とも、第一次大戦を前線で戦った世代、すなわち「四世紀にわたる西洋の哲学的楽天主義を形成した古来の信念を完全に削ぎ落とされた最初の世代」に属している(Henri Godard, Une grande generation, Gallimard

 従軍経験から、モンテルランは、戦争を古代の戦闘やスポーツになぞらえて力強さを称えるようになるのだが、それは、「私には、空無の大海の上に身を支えるのに、おのれについて自分の抱いている考えしかない」と述べられるように(
Henry de Montherlant, Service inutile, in Essais, Gallimard, col. Pléiade、深い虚無感に裏打ちされているがゆえに、倨傲にも見えるほど個人的な姿勢に留まったかに思われる。

 そのようなモンテルランが、パリ解放後に全国作家委員会(
CNE)の「望ましからぬ作家のリスト」に名を連ねたのは、406月の休戦を示す題名の論集『夏至』を1941年に刊行したからである。1938年刊の著作『秋分』は、ミュンヘン会談以降のフランスの弱腰に対する批判を含む書物だったが、『夏至』は、「1940年のフランス人に見出される凡庸さに満ちた空気に対する嫌悪感」に突き動かされて書かれた文章を集めたものだった(Paul Sérant, Dictionnaire des écrivains français sous l’Occupation, Grancher

 「いったいどれほど以前から、フランスは、力というものに対する憎しみと軽蔑に浸ってきたのだろうか」というフランスへの筆鋒鋭い批判はしかし、彼をレジスタンスに駆り立てることはなく、ヴィシーへの賛意に向かわせたのである。彼は、芋虫の群れに小便を掛けて苦しめながらも助けてやったことを誇りつつ、「この遊びについて述べたのは、[…]それが戦争の働きに似ていないわけではないと思われるからだ」と説明しているが、これなど、当時のフランスの読者にとっては、敗者である自分たちは勝者であるドイツ人の寛容さを頼るしかあるまい、との主張にほかならなかった(
Henry de Montherlant, L’éxinoxe de septembre suivi de Le solstice de juin et de Mémoire, Gallimard

 だが、『夏至』で示されたフランスへの苛立ちと来るべき雄々しさは、モンテルランにあっては、ファシズムに向かうこともまたなかった。というのも、日本の武士道を参照するモンテルランは、「[英雄精神にかんする]自分の考えを要約すれば、集団に加わることが日に日に理にかなったことになるような社会において、断固として一人で在り続けること、となる」と述べ、あくまでも独立していることを重視するからだ。

 そして彼は、意外なことに、以前から作家は政治にかかわるべきではないと考えていたが、『夏至』においても、「数か月来、時事的事柄にあまりにうつつを抜かしてきた作家たちに対して、私は、彼らの作品のうち時事的事柄にかかわる部分がすっかり忘れ去られるだろうと予言しておく。ある貝殻を耳に当てると海の音が聞こえるのと同じように、今日の新聞や雑誌を開けば、私はそこに未来の人々の無関心が広がるのを耳にするのだ」と記している(
Ibid.。しかしながら、彼の思惑とは異なり、これらの時事的な文章は、当初ドイツ側の検閲に引っ掛かって公にできなかったにもかかわらず、刊行された後はCNEによって政治的に判断されることになった。

 こうしてモンテルランは
194610月に処分を受けることになるのだが、それは、4410月から一年間の出版禁止という、遡及的できわめて形式的なものだった。確かにモンテルランは、ゲルハルト・ヘラーからワイマール旅行に誘われるも断っていたし、大戦中、『夏至』を除いてはもっぱら、ポルトガル王家の悲劇『死せる王妃』など、さほど政治色を感じさせない戯曲を発表していた。

 彼は、「
1940年から44年にかけて、身の安全や安心感や平穏さの必要から、いっさい行動というものを顧慮しなかった一人の反抗者として振舞った」わけである(Pierre Sipriot, Montherlant sans masque, Livre de poche。言うなれば、彼の雄々しさは、勇敢という周囲の評判とは異なって、きわめて私的なものだったのだ。だからこそ彼は、高名さにそぐわず、周りが彼の作品から彼自身に対して抱いていた期待を裏切ったことにもなるのだが、またそれゆえに、ミュンヘン会談の直後には戦争の危機を感じて東部の国境地帯に馳せ参じながらも、占領中には行動することもファシズムに心から傾倒することもなかったのである。

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呪われた作家たち10

 

 プロヴァンス地方の高地。うらびれた農村にやってきた流れ者のボビは、農民の一人にこう告げる。「あんたは、世界をどうしても愛してしまうようにできているんだよ」(ジャン・ジオノ『喜びは永遠に残る』山本省訳、河出書房新社。ジャン・ジオノの『喜びは永遠に残る』は、これをきっかけに農村の人々に交流がもたらされる物語。彼らは次第に、自然の中に生きる生命の喜びを感じるようになるのだが…… 


 
1895年南仏生まれで独学の作家ジオノは、山間の自然を舞台にした農民や職人たちの、いささか苦みを含みながらも心温まる物語を描き続けた。戦前からすでに人気のあったそんな彼の名が、パリ解放後に対独協力作家の粛清を進めた全国作家委員会(CNE)による「望ましからぬ作家のリスト」に見出されることは、とても意外にも思われる。彼はまるで党派的ではなかったからだ。だが彼は「生涯を通じてしばしば起こったことだが、種々の陣営から声をかけられ、またその結果、種々の対立陣営から攻撃された」のである(Pierre Citron, Jean Giono, Seuil

 第一次大戦に従軍したジオノは、それ以来、平和主義者となる。第二次大戦直前の
19396月に「平和主義者たらんとする勇気をもたぬ者は軍人である」と記した彼は(Jean Giono, Recherche dela pureté, in Récits et essais, Gallimard, col. Pléiade、同年9月の開戦時には徴兵のポスターに「Non」と記すなど反戦を唱えたが、その数日後、驚くべきことについに動員令に応じてしまい、平和主義の仲間たちの顰蹙を買うことになる。しかしいざ召集されてみると、今度はその直前の反戦活動を咎められ、逮捕された挙げ句に2ヶ月間拘留されるのである。

 戦前から、物質主義的な都市文化に対抗する農民たちの反乱を思い描いていた彼は、フランスの敗戦を、パリに代表される旧秩序の一掃として捉えたものの、釈放後には政治的な文章を書かず、大戦中は、かねてから取り組んでいた『白鯨』の仏訳をはじめとして、もっぱら文学的な作品を出版している。しかも大戦中、彼は自宅にドイツ人のコミュニストやユダヤ人を匿っており、脱走兵や、援助を求めに来た人たちを助けたりもしていた。それゆえ「
19448月、フランス暫定政府の南西部担当委員がここにやって来るや「何だと?まだジオノを逮捕していないのか」と述べたと周囲が繰り返し説得しても、彼は自分の住む町を離れることなど考えなかったのである」(Pierre Assouline, L’épuration des intellectuels, Complexe

 とはいえ、当時、彼が文章を発表していたのは、ピエール・ドリュ・ラ・ロシェルが編集する親独的な『新フランス評論』であり、あるいは、対独協力路線を歩んでいたアルフォンス・ド・シャトーブリアンの雑誌『ラ・ジェルブ』なのだった。また彼は、何度かパリに赴き、ドイツ軍の闊歩する文壇に交わり、第
2回ワイマール旅行に招待されてもいる。またしても不器用なことに、彼は、直後に断ることになるものの一旦はこの招待を承諾してしまう。さらに、彼が作品で描いてきた「大地への回帰」がヴィシー派によって流用されたことに加え、ドイツの雑誌に彼の紹介記事が写真入りで掲載されたこともあった。

 そして、これらの事柄によって、ジオノは対独協力者として名指されるばかりか、トリスタン・ツァラから「ドイツ野郎が現われ、ディドロ、ボードレール、ランボーの言葉が裏切りに利用されるところではどこでも、ジオノは露骨に卑劣な態度を取った」と痛烈に批判されるのである(
Pierre Citron, op.cit.. なお、この批判については、後にジョルジュ・デュアメルらが取り消させようとしている

 その一方で彼は、相も変わらぬ平和主義者であることによって、大戦中、断固たる対独協力派からもまた、疑わしく思われていた。「[…]親独的で反ユダヤ主義の『オ・ピロリ』誌では「ガリマールと美しき仲間たち」が槍玉に挙げられ、シュルレアリストやシオニスト、反ナチ(マルロー)に加えてジオノのような平和主義者の文章を発表しているとして攻撃されていた」のであり(
Pierre Citron, ibid.43年には、戯曲『四輪馬車の旅』がレジスタンスを想起させるとして、ドイツ当局によって上演禁止の憂き目にあっているのだ。しかしながら、彼は449月、今度はレジスタンス派によって捕えられ、6ヶ月近く拘留されるのである。

 ジオノは、
1930年代の一時期コミュニズムに接近しはしたが、ソ連に幻滅してけっしてコミュニストにはならなかったし――このことはCNEのルイ・アラゴンの心証を害していた――、大戦中に親独的雑誌に文章を発表していたが、ファシストではなかった。まさしく「ジオノはあらゆる政治を嫌うといったが、その結果最悪の政治を耐え忍ぶ」こととなったのである(ゲルハルト・ヘラー『占領下のパリ文化人』大久保敏彦訳、白水社

 しかし、身近な人を助けながらも、開戦当初はフランス軍から睨まれ、大戦中は対独協力者から不信の目を向けられ、パリ解放後はレジスタンスから対独協力者として扱われるなど、一見すると一貫性を欠くジオノの遍歴は、「平和主義者はいつも孤独だ」という自身の言葉どおり、妥協を知らぬ独立不羈の現われにほかならなかったのであり、
たとえそれが傍から見て首尾一貫しないものに見えたとしても、たいしたことではなかったのである。

 

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呪われた作家たち9

 「美徳というのは一つしかない。すなわち軽率さである」(Marcel Jouhandeau, L’éloge de l’imprudence, Noé。マルセル・ジュアンドーは、おそらく、自身のこの言葉どおり、傍から見ればきわめて軽率に、占領期のパリを生きた人物である。

 1888
年、リムーザン地方の町ゲレに生まれたジュアンドーは、20年代から『新フランス評論(NRF)』などに文章を発表し始め、ジャン・ポーランと知り合って固い友情で結ばれるが、他方で、29年にエリーズと結婚するものの、実のところ、彼はすでに同性愛の衝動を自分のうちに感じていた。

 ドイツ軍の進撃を前にしてパリ市民が大挙して街を脱出した
19406月、ジュアンドーは妻とともにパリに残った。後日刊行された『占領下日記』には、人気のなくなったパリに留まるという決意が、「窓の下を一段の人々が歩いて通って行くのを眺めながら、私たちは二人きりで抱擁しあってじっとしていた。そして私は、妻が「あなたと苦しみを共にして、一緒に死んでいくことが、私にとっては唯一の慰めなの」などと口にしたとき、たとえこうして二人でいることがけっして融合をもたらしはしないとしても、二人でいることの力をつかの間感じたのだった」と示されている(Marcel Jouhandeau, Journal sous l’Occupation, Gallimard

 しかし、この『日記』に読まれるのは、戦局や当時のパリの観察というよりは、きわめて私的な日々の事柄である。これは戦後にかなり修正されていると思しき
虚実ない交ぜの日記ではあるが、それでも、占領下のジュアンドーについては、アンドレ・ジッドが「パリのヒトラー派には、真面目な人々、裏切り者、追従者、感傷的な人々など、いろんな手合いがいる。ジュアンドーは感傷的な一人で、彼の意見は重きをなしていない」と述べたと、ジャン・グルニエが伝えているように(Jean Grenier, Sous l’Occupation, Claire Paulhan、おおよそ政治的ではなかった。

 そんなジュアンドーが、パリ解放後に全国作家委員会の対独協力作家リストに名を連ねたのは、戦前から反ユダヤ主義を表明していたことに加えて、何よりも、
1940年秋の第1回ワイマール旅行に参加したからである。

 1936
年、ユダヤ人レオン・ブルムを首班とする人民戦線内閣が成立するや、極右リーグの面々を筆頭に、激しい反ユダヤのキャンペーンが繰り広げられるが、ジュアンドーは突如として、明確な理由もなく反ユダヤ主義を表明し始めた。「どのようなユダヤ人であれ、彼らをフランス市民と見なすことは、フランスとフランス人をひどく侮辱することだ」と記したジュアンドーは(Marcel Jouhandeau, Le peril juif, Sorlot ; cité par Pierre Hebey, La nouvelle revue française des années sombres, Gallimard、ポーランらの度重なる説得にもかかわらず、自分の反ユダヤ主義を翻さなかったのである。

 そして
1941年、ドイツ宣伝梯隊のゲルハルト・ヘラーは、フランス作家団をワイマールに引率するに際して、ジュアンドーに参加を呼びかける。ジュアンドーは逡巡したが、フランスの作家たちがこのプロパガンダ旅行に参加することでフランス人捕虜が釈放されるかもしれないと友人に説得されたこともあり、最終的に参加することになる(実際にこの旅行の後に釈放された囚人もいた)。そして帰国後、彼はドイツ当局との約束どおり、「フランスにとっては今こそ自分自身を把握し、ドイツを理解し、ドイツはこれまで我々が教えられてきたような国でないことを理解し、そしてまた、アドルフ・ヒトラーの人々はインターナショナリズムが躍起になって我々をして彼らを憎悪せしめようとしてきた姿とは異なるのだということを理解すべき時ではあるまいか」いった(Marcel Jouhandeau, « Témoignages », NRF, déc 1941)、ナチスドイツを擁護する文章を発表している。

 しかし、このワイマール旅行の報告を最後に、「
19421月以降、彼は口を噤み、政治色のある文章は一行たりとも書かなかった」し(Jacques Roussillat, Marcel Jouhandeau, Bartillat、彼が当時発表した文章のほとんどは文学作品だった。しかも、ドイツ旅行について戦後出版された彼の『秘密の旅行』には、政治的な主張ではなく、「Hと私は、唖者のように愛し合った。[…]私たちは手をつなぎ、興奮して生気溢れる眼差しで見つめ合ったのだった」という記述をはじめとして(Marcel Jouhandeau, Le voyage secret, Alréa)、ヘラーやドイツの青年ハンス・バウマンに対する愛情が描かれているのである。まるで彼らへの愛情から衝動的にワイマールへ赴いたかのごとくだ。翌42年秋には第2回ヨーロッパ作家会議が開催されるが、ジュアンドーは自宅の修繕を理由に参加しなかった。

 1944
年春、ジュアンドーは、自分の大戦中の行動がどのような意味をもつことになったのか理解し、いささか高慢にも、「もしいま知っていることを1939年から40年の段階で知っていたならば、私は間違いなく実際とは違った風に振舞っただろう。けれども、良かれと思ったことを信じながら私は率直に道を誤ったんだ」とポーランに書き送ったという(Cf. Jacques Roussillat, op.cit.

 そんな彼に対して、ポーランは珍しく激高して、「君は危険に晒されているわけじゃない。収容所で先日亡くなったのは君ではなく、マックス・ジャコブだ。[…]処刑を逃れるために身を隠さざるをえなかったのは君ではなく、アラゴンでありエリュアールでありモーリヤックだ。[…]私たちの誰もが勇気を示さねばならなかったとき、(ほとんど)君だけが命を危険に晒すことなく、穏やかな生活を送ったのだ。君が、何一つ熟慮の上では行動できないことも、平穏な生活を望まずと手に入れたことも、私とてよく知っている。とはいえ結局、君は平穏を手にしているじゃないか」と、まるで子供を叱る大人のように、手厳しく返事したのだった(
Jean Paulhan, Choix de lettres, tome II, Gallimard

 戦時中という危機的な局面においても、ジュアンドーは、軽はずみにも、おのれの衝動に駆られるまま振舞った。彼はその帰結に苦しんだのだろうか。いや、ひょっとすると、第
2回ワイマール旅行を周到に断ったことや、悪妻と知りながら最期までエリーズと共に生活したことにも見られるように、自ら進んで軽率さを楽しんでいたのかもしれない。

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呪われた作家たち8

 政治的な事柄にはまるで無縁と思われていたのに、ドイツによる占領が始まるや親独的発言を繰り返して、周囲を驚かせた作家。大ブルジョワの家に1884年に生まれたジャック・シャルドンヌは、おそらくその一人だろう。シャルドンヌといえば、若い妻を愛するあまりその貞淑を試すに至って、かえって妻のみならず自身をも嫉妬で苦しめてしまう中年男性の物語『ロマネスク』など、フランス文学の伝統である繊細な心理分析に長け、男女のカップルを描くことにかけては右に出る者がいないと形容される書き手だった。

 だが彼は、ゲッペルスの招きに応じて、ロベール・ブラジヤックやピエール・ドリュ・ラ・ロシェルらとともにワイマールに赴き、フランス作家団長まで務めたのである。


 シャルドンヌは、大戦中に「ドイツの力のみが共産主義からヨーロッパを救うことができたのである」と記し(
Jacques Chardonne, Voir la figure, Grasset、圧倒的な勝利を収めたドイツこそがヨーロッパの中心をなすべきだと考え、ドイツを「勝利者」と呼んで憚らない。「力で打ち負かされた者は、この力を貶してはならないし不平をこぼしてもならない。[…]正義の問いを立てるのは勝利者なのだ」(Jacques Chardonne, Chronique privée de l’an 1940, Stock

 とはいえ、占領軍に対する彼の好意は、綿密な観察から織り成されるその文学作品と同様に、イデオロギーというよりはむしろ、日常生活のレベルで寄せられていたかに見える。彼は、進駐ドイツ軍を警戒するどころか大歓迎するシャラント県の人々を描き、「あなた方をこちらからご招待できればよかったのですがね。[…]ともかく、私のコニャックを召し上がってください。心からの贈り物です」という、コニャック醸造者のドイツ軍兵士に対する言葉を記している(
Jacques Chardonne, « L’été à La Maurie », La nouvelle revue française, déc 1941。そこに敗北の苦々しさは微塵もない。アメリカは戦後の日本に民主主義をもたらしたとも言えるわけで状況は単純には比較できないが、それでもシャルドンヌは、たとえば、敗北を描いた野坂昭如「アメリカひじき」のような(新潮文庫)、「敗けること」のもつ屈辱とある種の満足感の入り混じった卑屈さからは程遠く、まるで屈託がない。

 シャルドンヌのこの文章が発表されたのは
4012月、ドリュを新編集長とした『新フランス評論(NRF)』の復刊号だったが、これを読んだジャン・ポーランは「シャルドンヌは唾棄すべき腰抜け」とマルセル・ジュアンドーに書き送っている。占領中にシャルドンヌが発表した『1940年の私的時評』などの時事的な作品が、占領軍への阿諛追従と映ったのは不思議ではない。たとえば、この文章と同じ号に掲載され、奥歯に物が挟まったような文体で書かれたアンドレ・ジッドの文章は、「誰もが苦しみかねない敗北の間接的な結果を思い描くには、多くの想像力と、極めて稀な素質、つまり推論の素質が必要だ」と述べるなど(André Gide, « Feuillets », La nouvelle revue française, déc 1941、どうにかしてフランス精神の矜持を保ちつつ占領下で文章を発表しようと試みているのだった。実際、シャルドンヌの作品を読んだ後、NRFの創刊者の一人であるジッドは、もう自分はNRFには書かないとドリュに対して通告している。

 それにしても、シャルドンヌは、文学を愛する検閲官ゲルハルト・ヘラーや、規律を守る身近のドイツ兵たちを眺めて政治的判断を下してしまうほどにナイーヴだったのか。
4211月にフランス全土が占領されると、ヴィシーは警察国家の道を歩み始め、当初、対独協力を選んだ人々は抜き差しならぬ状況へと足を踏み入れつつあったが、彼は、その直前の10月、第2回ワイマール旅行に参加した。「彼の目には国民社会主義の全体主義的性格がまるで見えなかったよう」なのだ(Paul Sérant, Dictionnaire des écrivains français sous l’Occupation, Grancher

 逆説的だが、大戦中、シャルドンヌは自由闊達に振舞った。
2度までワイマール旅行に参加する一方で、政治的にも文学的にもシャルドンヌとは相容れない作家レイモン・ゲランが捕虜収容所に捕えられると、その釈放をヘラーに働きかけ、これに成功する。また、シャルドンヌの息子ジェラールは、レジスタンスに身を投じ、43年逮捕されて収容所に送られるが、父親はドイツ当局とのコネクションの限りを尽くして息子を解放させている。だが、彼は息子と行動を共にすることはなく、未刊の作品で43年においてなお、「国民社会主義は人間味あふれる人物を中心にして新世界を創造した」という文章を記すのだった(Jacques Chardonne, Le ciel de Nieflheim, inédit ; Ginette Guitard-Auviste, Jacques Chardonne, Albin Michelに引用。 なお、本書を出版しないようシャルドンヌに勧めたのはヘラーである

 パリ解放後、シャルドンヌは、コニャック地方の監獄に
6週間捕えられた。その間に記された死後出版の手記には、「私は、今まさに私たちを追放する人々に代わって、ドイツによる支配を軽減しようとしてきたのだし、それには危険がないわけではなかったのだ」などと記され、自己弁護の姿勢が色濃く滲んでいる。だがそこにはまた、フランス人がフランス人を拷問にかけ処刑したレジスタンスの復讐心について、「私たちのいるフランス南西部で19448月から12月の間に起こったことは、決して明らかにはされないだろう。身代金や拷問のことは闇に葬られる。犠牲者がみな裏切り者だったわけではないのだ。選ぶ時間がなかったのだから」との文言も読まれる(Jacques Chardonne, Détachements, Albin Michel, 1969。ファシストではなかったが、ナチスやヴィシーの未曽有の蛮行について度し難く盲目でもあったシャルドンヌは、それゆえにこそ、対独協力の曖昧さやレジスタンスの多面性を浮き彫りにしているかのようである。

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呪われた作家たち7

 194110月、フランスの出版物の検閲官ゲルハルト・ヘラーは、ワイマールで催される第1回ヨーロッパ作家会議に、フランスの作家たちを引率して行った。参加者は、「ジュ・スィ・パルトゥ」編集長ロベール・ブラジヤック、『新フランス評論(NRF)』編集長ピエール・ドリュ・ラ・ロシェル、グラッセ社のアンドレ・フレニョーのほかに、フランソワ・モーリヤックの友人でありながらフランス人民党の政治局員でNRFの批評家だったラモン・フェルナンデス、アカデミー会員で、42年からピエール・ラヴァル内閣で国民教育相を務め、反ボルシェヴィキ義勇軍団(41年夏以降ロシア戦線で戦うフランスの有志たちの軍団で、ドイツの軍服に身を包んでいた)と民兵隊(Milice)を支持することになるアベル・ボナール、そして、ジャック・シャルドンヌとマルセル・ジュアンドーである。

 このうち、ジュアンドーとボナールは、当初予定されていたマルセル・アルランとポール・モランの代わりに参加した。このような会議は文学に限らず、美術や音楽、映画についても同種の会合がほぼ同時期にドイツ領内で開かれ、たとえばリュシアン・ルバテなどは、ウィーンで催された「モーツァルト祭」に出席している。


 ところで、この顔触れを見ると、ブラジヤックやドリュのように明確にファシズムを選んでいた作家に加えて、さほど政治的とは思われていない作家も招かれたことがわかる。ジュアンドーは、反ユダヤ主義者だったがファシストではなかったし、そもそもこの旅行への参加を渋っていた。シャルドンヌにいたっては、それまで政治的な事柄に無縁と思われていたにもかかわらず、ドイツによる占領が始まるや政治的発言を繰り返して、物議を醸した作家である。


 彼らにこの旅行への参加を促したヘラーは、「フランス文化の発展を助長し、ドイツ文化と他のヨーロッパ諸国の文化との出合いの場を広げよう」という意図を抱いていた(
ゲルハルト・ヘラー『占領下のパリ文化人』大久保敏彦訳、白水社。シャルドンヌ、ジュアンドー、フェルナンデスの3人は、ヘラーに引き連れられて、会議の前にハイデルベルクやウィーンなどドイツ領内を周遊し、ゲッペルスをベルリンに訪ねた。他の4名は後発組として直接ワイマール入りし、帰途ベルリンに立ち寄り、そこでドイツのために働くフランス人労働者たちや彫刻家アルノ・ブレーカーを訪問している。

 「来るべきヨーロッパにおける文学」がテーマとなったこの会議には、枢軸国やドイツの占領国、および中立国も含めて
14カ国から、総勢31人の作家が集い、なかにはフィンランドを代表する詩人ヴェイッコ・アンテロ・コスケンニエミの姿も見られた。会議は、ヨーロッパ文明を共産主義からいかに守るかという開会の辞で始まった。参加者はその後ゲーテの家を訪ね、ドイツの作家ハンス・カロッサを長とするヨーロッパ作家連合が発足して数日間の会議は幕を閉じた。

 会議を通じて、フランスからの参加者の多くは、今やフランスではなくドイツがヨーロッパ文化を担う可能性をもつという事態に忸怩たるものを感じながらも、ドイツによる「新秩序」に感銘を受けたのだった。


 そしてこの旅行はたちまち、作家の対独協力のシンボルと見なされるようになる。事実、彼らは帰国後、相次いでワイマール旅行について文章を発表し、ヘラーの友好的な回想とは裏腹に、「フランスは、臆病な待機主義と手を切って、たとえ自国の労働者を提供するだけにせよ、ドイツが対ボルシェヴィスム十字軍において身を削っている素晴らしき行為に参加すべきだ」という、ナチスの代弁者のごとき主張を繰り広げるのだった(
François Dufay, Le voyage d’automne, Plon

 こうして、
44年秋には、ポール・エリュアールによって、この旅行に参加した作家全員(ただしフェルナンデスはその年の夏に死去)の逮捕が要求されることになる。しかも、後発組がパリに戻った際の報道写真そのものが、対独協力の象徴としてしばしば複製されることになった。

 ワイマールに赴いた作家たちが、この旅行がもつであろう意味を出発前に予想できなかったとは考えにくい。確かに、会議に参加することで、彼らの作品はドイツ語に訳されて出版されることになっていたし、収容所に捉えられているフランス人の釈放という交換条件がちらつかされた可能性もある。だがそれにしても、後年のヘラーの言葉を借りれば、「当時としては重大な政治的過失」であるにもかかわらず、シャルドンヌやドリュ、フレニョーは、アンドレ・テリーヴとジョルジュ・ブロンとともに、
42年に開かれた第2回ヨーロッパ作家会議にも参加する道を選んだのだった。

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呪われた作家たち6

 第二次大戦中のフランスでもっとも読まれた書物の一つであるリュシアン・ルバテの『残骸』は、次のように書き始められている。「フランスは残骸の山だ。事物、教養、制度の残骸の。これらは偶発的な、特異な天変地異の産物などではない。本書はこれらの巨大な残骸の山を積み上げた長期の地滑り、相次ぐ崩壊の見聞記である」リュシアン・ルバテ『残骸』池部雅英訳、国書刊行会。本書はこのように、フランスの弱体化や第二次大戦の敗北に対する糾弾の書であり、1934年から41年のフランスを生きたルバテの自伝でもある。

 1903
年に生まれたルバテは、1929年頃から「アクシオン・フランセーズ」紙の音楽文化欄を担当することでジャーナリストとしての活動を始め、戦後は、『一つの音楽史』という浩瀚な書物を発表している。1930年代、彼は、次第にシャルル・モーラスのファシズム革命への及び腰に飽き足らなくなり、より行動志向の強い「ジュ・スィ・パルトゥ」紙に活動の重点を移し、33年以降は、ドイツからフランスへのユダヤ移民が増えるにつれて反ユダヤ主義に傾倒していく。だが、彼の政治姿勢は、「ジュ・スィ・パルトゥ」紙で一緒に働いていたロベール・ブラジヤックと、反民主主義の態度は深く共有しながらも、本質的には異なっていた。ファシズムを詩情の発露として考えていたブラジヤックに対して、ルバテは、貴族趣味のアナキストだったのである。自分の思想は揺らいでいないとする彼は、あらゆるものを弾劾し、とりわけ身近だった人々に対して変節したと筆鋒鋭く批判した。

 とはいうものの、それは無鉄砲な悪口雑言だったわけではない。ルバテは、
1946年、対独協力者に対する裁判の最終弁論において、「私は自分がどうなろうと知ったことではない。一人の囚人にすぎないのだから。けれども、私は裏切り者ではない。ここで私は自分の名誉を守っておきたい」と発言する(Pascal Ifri, Rebatet, Pardès

 対独協力者たちは異口同音にこのように述べていた。すなわち、自分は祖国に対する反逆者なのではなく、本来あるべき祖国を実現せんがために、現実の祖国を倒そうとしたのだ、と。彼らにとって、民主主義下で、スキャンダルに塗れるなどして政府が目まぐるしく変わり、内政においても外交においても一貫性を欠いていた
1930年代のフランスは、祖国の真の姿ではなかった。彼らからすれば、フランスの脆弱さの原因は、共和制、およびその体制下で一時期にせよ権力を握ったレオン・ブルムたちユダヤ人にあった。その国家首班たちこそ、再軍備を進めたドイツを叩く機会を逸しながらも、戦争を引き起こした揚句にフランスを敗北に導いたというのだ。つまり第二次大戦中、ドイツに協力した人々のなかには、少なからぬ数の反戦・厭戦家がいたのである。

 ルバテはもともと軍隊というものを好み、従軍もしたが、
30年代を振り返って、「我々の過ちは我々が知的な平和主義者だったことだ」と記している。彼の目には、この戦争はユダヤとアングロ・サクソンが仕掛けたものにほかならなかった。それらの勢力からフランスを解放して新秩序を確立せねばならず、そのためには、ユダヤ人を文字通り一掃し、独ソ不可侵条約を破って共産主義に対する全面的な戦いを始めたドイツにならって、フランスを立て直す必要がある。

 そのように考えるルバテが実際に強硬な対独協力者となったのは、
19416月にドイツ軍がソ連に侵攻してからであり、42年に刊行された『残骸』には、「チャーチル・ルーズベルト・スターリンという嘘のような、えげつない『トロイカ』を繋いだのはユダヤ人だ。こんなものが成功したら、それこそ西欧の崩壊だ」といったユダヤと英米、共産主義に対する呪詛と、「私が素晴らしいと思うのは、ドイツがドイツであることではなく、ヒトラーを容認したことだ。ドイツが他のどの国よりも鮮やかに政治秩序を得たことに拍手を送りたい。その秩序の中に私の希望のすべてがある」というナチズム礼賛が氾濫しているのだった(リュシアン・ルバテ、前掲書)。

 しばらくヴィシーで働いた後、その弱腰に幻滅したルバテは、「フランス政府はヴィシーでくたばるか、さもなくば生きる意欲を発見し、そしてすでに希望を選択した人々と都で合流するかだ」と述べてヴィシーと決別し、
41年秋に占領下のパリへ赴くだけでなく、枢軸国側の配色がきわめて濃厚となった19441月においてなお、国民社会主義体制をフランスに樹立すべしと唱えたのだ。福田和也が記しているように、「あらゆる伝統的価値、既存の秩序を憎悪するルバテにとって、[ペタン]元帥とかれのかかげる家庭や友愛を基本とする政策は、古めかしい噴飯ものとか思えず、実現の可能性もないファシズム国家をかたにあらゆるエスタブリッシュメントに対する罵倒を続けることがかれの対独協力の本質であり、わが身と国家の将来に配慮することなく、この崩壊の愉悦に最後まで忠実であろうとしていた」という点において(福田和也『奇妙な廃墟』ちくま学芸文庫)、第三共和制のみならずヴィシーの廃墟を喜ぶまでに一貫していたルバテの振る舞いは、対独協力の論理の一つの極限なのだった。

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